ケしにはあらずやと疑はれぬ。隣席の紳士は我を顧みて、餘りに力を落し給ふな、單吟《ソロ》には稍※[#二の字点、1−2−22]觀る可きものなきにあらず、此組にも好き道化師《プルチネルラ》あり、大劇場に出だしても恥かしからぬ男なりなど云ふ。この時今宵の曲の女王は、侍姫《じき》に扮せる二女優と共に場に上りぬ。紳士眉を顰《ひそ》めて、さては女王は渠《かれ》なりしか、全曲は最早一錢の價だにあらざるべし、あはれジヤンネツテ[#「ジヤンネツテ」に傍線]ならましかばとつぶやきぬ。
 女王は身の丈甚だ高からず、面《おもて》の輪廓鋭くして、黒き目は稍※[#二の字点、1−2−22]|陷《おちい》りたり。衣裳つきはいと惡し。無遠慮に評せば、擬人せる貧窶《ひんく》の妃嬪《ひひん》の裝束《さうぞく》したるとやいふべき。さるを怪むべきは此女優の擧止《たちゐ》のさま都雅《みやびやか》にして、いたく他の二人と異なる事なり。われは心の中に、若し少《わか》き美しき娘に此行儀あらば奈何《いか》ならんとおもひぬ。既にして女王は進みて舞臺の縁《ふち》に點《とも》し連ねたる燈火の處に到りぬ。此時我心は我目を疑ひ、我胸は劇《はげ》しき動悸を感じたり。われは暫くの間、傍なる紳士に其名を問ふことを敢てせざりき。われ。此女優の名をば何とかいふ。紳士。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]といへり。歌ふことを善くせぬに、その顏ばせさへこれが償《つぐのひ》をなすに足らねば、顧みる人なきもことわりなり。此詞は句々腐蝕する藥の如く我心上に印せり。われは瞠目枯坐して心《しん》を喪《うしな》ふものゝ如くなりき。
 女王は歌ひはじめき。否、こはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が聲ならず。微かにして恃《たのみ》なく、濁りて響かず。紳士。この喉には些《いさゝか》の修行の痕あるに似たれど、氣の毒なるは聲に力なきことなり。われ。(騷ぐ胸を押し鎭めて)さきには羅馬《ロオマ》、拿破里《ナポリ》に譽《ほまれ》を馳せたる西班牙《スパニア》生れの少女《をとめ》ありしが、この女優は偶※[#二の字点、1−2−22]《たま/\》其名を同じうして、色も聲もこれに似ること能はざりしよ。紳士。否、この女優こそはその名譽あるアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]がなれる果《はて》なれ。盛名一時に騷ぎしは七八年《なゝやとせ》前のことなるべし。當時は年もまだ
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