アと、獨り此瀑布のみにはあらず。
導者はわれを顧みていふやう。昨年|英吉利《イギリス》人《びと》ひとり山賊に撃ち殺されしは、此巖の上にての事なりき。賊はサビノ[#「サビノ」に二重傍線]の山のものなりといへど、羅馬のテルニイ[#「テルニイ」に二重傍線]との間に出沒して、人その踪蹤《そうしよう》を審《つばら》にすること能はず。警吏は直ちに來りて、そが夥伴《なかま》なる三人を捕へき。われはその車上に縛せられて市《まち》に入るを見たり。市の門にはフルヰア[#「フルヰア」に傍線]の老女《おうな》立ち居たり。老女は天《あめ》の下の奇しき事どもを多く知れるものにて、世には法皇の府の僧官《カルヂナアレ》達も及ばざること遠しとぞいふ。その時老女の車上の賊に向ひて語りしは、何事にかありけん、例の怪しき詞なれば、傍聽《かたへぎき》せしものは辨《わきま》へ知らん由なかりき。さるを後には老女を彼賊の同類なりとし、ことし數人の賊と共に彼老女をさへ刎《は》ねて、ネピ[#「ネピ」に二重傍線]の石垣の上に梟《か》けたりと語りぬ。
妄想
自然と云ひ人事と云ひ、一として我心の憂を長ずる媒《なかだち》とならざるものなし。暗黒なる橄欖《オリワ》の林はいよ/\濃き陰翳を我心の上に加へ、四邊《よも》の山々は來りて我|頭《かしら》を壓せんとす。われは飛ぶが如くに、里といふ里を走り過ぎて、早く海に到らんことを願へり、風吹く海に、下なる天《そら》の我を載すること上なる天の我を覆ふが如くなる處に。
我胸は愛を求むるが爲めに燃ゆ。是より先き此火は既に二たび點ぜられしなり。昔のアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は我が仰ぎ瞻《み》しところ、我が新に醒めたる心の力もて攀《よ》ぢんと欲せしところなるに、憾《うら》むらくは我を棄てゝ人に往けり。今のフラミニア[#「フラミニア」に傍線]は我を眩《げん》せしめず、我を狂せしめずして、漸く我心と膠着《かうちやく》すること、寶石のまばゆからざる光の、久しきを經て貴きことを覺えしむるが如くなりき。フラミニア[#「フラミニア」に傍線]は我手を握ること、妹の兄の手を握る如く、我にこれに接吻することを許すこと、妹の兄に許す如く、又我を説き慰め、我が爲めに祈りて世の穢《けがれ》を受けざらしめんとして、その度ごとに知らず識らず鏃《やじり》を我心に沒せしめたり。我はこれを愛すること
前へ
次へ
全337ページ中282ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング