ヘいつしか夢の如くに過ぎ去りぬ。されどこの間われは遺憾なくこのまつりの興を受用し盡せり。そはアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]が我に賦《ふ》したる樂天主義の賜《たまもの》なりき。或時ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]のいふやう。汝はやうやくまことの男とならんとす。われ等に變らぬ眞の男とならんとす。されど汝はまだ唇を杯の縁にあてしに過ぎず。我は明かに知る、汝が唇の未だ曾て女子の口に觸れず、汝が頭の女子の肩に倚《よ》らざるを。今若しアヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]まことに汝を愛せばいかに。我。思ひも掛けぬ事かな。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]は我が僅に能く仰ぎ見るものゝ名にして、我手の屆くべきものゝ名にあらず。彼。あらず。高くもあれ低くもあれ、アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]とは女子の名なり。汝は詩人にあらずや。詩人は測るべからざる性あるものなり。その女子の胸の片隅を占むるや、その奧に進むべき鍵は、詩人の手にあるものぞ。我。姫がやさしさ、賢《さか》しさ、姫が藝術のすぐれたるをこそ慕へ。これに戀せんなどとは、われ實に夢にだにおもひしことなし。彼。汝が眞面目なるおも持こそをかしけれ。好し/\、我は汝が言を信ぜん。汝は素《もと》より蛙なんどに等しき水陸兩住の動物なり。現《うつゝ》の世のものか、夢の世のものか、そを誰か能く辨ぜん。汝はまことに彼君を愛せざるべし、わが愛する如く、世の人の戀するときに愛する如く愛せざるべし。されど汝が姫に對する情果して戀に非ずば、今より後彼に對して面をあかめ、火の如き目《ま》なざしゝて彼に向ふことを休《や》めよ。そは彼君のためにあしかりなん。傍より見ん人の心のおもはれて。されど姫はあさて此地を立つといへば、最早その憂もあらざるべし。基督再生祭の後には歸るといへど、そも恃《たの》むべきにはあらず。これを聞きたるとき、我胸は躍りぬ。アヌンチヤタ[#「アヌンチヤタ」に傍線]を見るべからざること五週に亙《わた》るべし。彼君はフイレンツエ[#「フイレンツエ」に二重傍線]の芝居に傭《やと》はれ、斷食日の初にこゝを立つなりとぞ。ベルナルドオ[#「ベルナルドオ」に傍線]は語を繼ぎていはく。かしこに至らば崇拜者の新なる群は姫がめぐりに集ふべし。さらば舊きは忘れられん。譬へば汝が即興の詩の如きも、その時こそ姫のやさしき目なざしに、
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