セ》け殘りたる石柱を掩《おほ》へるあり。この間には鬼の欷歔《ききよ》するを聞く。むかしペリクレエス[#「ペリクレエス」に傍線]の世には、この石柱の負へる穹窿の下に、笑ひさゞめく希臘の民往來したりき。そは美の祭を執《と》り行へるなり。ライス[#「ライス」に傍線](名娼の名)の如く美しき婦人は環飾を取りて市に舞ひ、詩人は善と美との不死不滅なるを歌ひぬ。忽ちにして美人は黄土となりぬ。當時の民の目を悦ばしたる形は世の忘るゝ所となりぬ。詩神は瓦礫《ぐわれき》の中に立ちて泣くほどに、人ありて美しき石像を土中より掘り出せり。こは古の巨匠の作れるところにして、大理石の衣を着けて眠りたる女神なり。詩神はこれを見て、さきの希臘の美人の俤《おもかげ》を認めき。あはれ古人が美をかう/″\しき迄に進めて、雪の如き石に印し、これを後昆《こうこん》に遺したるこそ嬉しけれ。見よや、死滅するものは浮世の權勢なり。美いかでか死滅すべき。詩神は又波を踏みて伊太利に渡り、古の帝王の住みつる城址に踞《きよ》して、羅馬の市を見おろしたり。テヱエル[#「テヱエル」に二重傍線]河の黄なる水は昔ながらに流れたり。されどホラチウス・コクレス[#「ホラチウス・コクレス」に傍線]が戰ひし處には、今|筏《いかだ》に薪と油とを積みてオスチア[#「オスチア」に二重傍線]に輸《おく》るを見る。されどクルチウス[#「クルチウス」に傍線]が炎火の喉《のんど》に身を投ぜし處には、今牧牛の高草の裡《うち》に眠れるを見る。アウグスツス[#「アウグスツス」に傍線]よ。チツス[#「チツス」に傍線]よ。汝が雄大なる名字《みやうじ》も、今は破れたる寺、壞れたる門の稱に過ぎず。羅馬の鷲、ユピテル[#「ユピテル」に傍線]の猛《たけ》き鳥は死して巣の中にあり。あはれ羅馬よ。汝が不死不滅はいづれの處にか在る。鷲の眼は忽ち耀《かゞや》きて、その光は全歐羅巴を射たり。既に倒れたる帝座は、又起ちてペトルス[#「ペトルス」に傍線]の椅子(法皇座)となり、天下の王者は徒跣《とせん》してこゝに來り、その下に羅拜せり。おほよそ手の觸るべきもの、目の視るべきもの、いづれか死滅せざらん。されどペトルス[#「ペトルス」に傍線]の刀いかでか※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《さび》を生ずべき。寺院の勢いかでか墮つる期《ご》あるべき。縱《たと》ひ有るまじきことある世とな
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