。あの音をお聞き。手水場の中よりか、矢っ張ここの方が近く聞えるわ。わたしきっとこの四畳半の障子だと思うの。ちょっと開けて見ようじゃないか。」お松はこん度常の声が出たので、自分ながら気強く思った。
「あら。およしなさいよ。」お花は慌《あわ》てて、又お松の袖にしがみ附いた。
 お松は袖を攫《つか》まえられながら、じっと耳を澄まして聞いている。直き傍《そば》のように聞えるかと思うと、又そうでないようにもある。慥《たし》かに四畳半の中だと思われる時もあるが、又どうかすると便所の方角のようにも聞える。どうも聞き定めることが出来ない。
 僕にお金が話す時、「どうしても方角がしっかり分からなかったと云うのが不思議じゃありませんか」と云ったが、僕は格別不思議にも思わない。聴くと云うことは空間的感覚ではないからである。それを強《し》いて空間的感覚にしようと思うと、ミュンステルベルヒのように内耳の迷路で方角を聞き定めるなどと云う無理な議論も出るのである。
 お松は少し依怙地《えこじ》になったのと、内々はお花のいるのを力にしているのとで、表面だけは強そうに見せている。
「わたし開けてよ」と云いさま、攫まえら
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