のだ。「おい、万年|新造《しんぞ》」と云うと、「でも新造だけは難有《ありがた》いわねえ」と云って、心《しん》から嬉しいのを隠し切れなかったようである。とにかく三十は慥《たし》かに越していた。
僕は思い出しても可笑《おか》しくなる。お金は妙な癖のある奴だった。妙な癖だとは思いながら、あいつのいないところで、その癖をはっきり思い浮かべて見ようとしても、どうも分からなかった。しかし度々見るうちに、僕はとうとう覚えてしまった。お金を知っている人は沢山あるが、こんな事をはっきり覚えているのは、これも矢っ張僕一人かも知れない。癖と云うのはこうである。
お金は客の前へ出ると、なんだか一寸《ちょっと》坐わっても直ぐに又立たなくてはならないと云うような、落ち着かない坐わりようをする。それが随分長く坐わっている時でもそうである。そしてその客の親疎によって、「あなた大層お見限りで」とか、「どうなすったの、鼬《いたち》の道はひどいわ」とか云いながら、左の手で右の袂《たもと》を撮《つま》んで前に投げ出す。その手を吭《のど》の下に持って行って襟《えり》を直す。直すかと思うと、その手を下へ引くのだが、その引きよ
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