れが今夜は二時を過ぎたかと思うのに、まだ床に戻っていない。何と云う理由《わけ》もなく、お金はそれが直ぐに気になった。どうも色になっている二人が逢って話をしているのだと云う感じではなくて、何か変った事でもありはしないかと気遣われるような感じがしたのである。

      *     *     *

 お花はお松の跡に附いて、「お松さん、そんなに急がないで下さいよ」と云いながら、一しょに梯子段を降りて、例の狭い、長い廊下に掛かった。
 二階から差している明りは廊下へ曲る角までしか届かない。それから先きは便所の前に、一|燭《しょく》ばかりの電灯が一つ附いているだけである。それが遠い、遠い向うにちょんぼり見えていて、却《かえっ》てそれが見える為めに、途中の暗黒が暗黒として感ぜられるようである。心理学者が「闇その物が見える」と云う場合に似た感じである。
「こわいわねえ」と、お花は自分の足の指が、先きに立って歩いているお松の踵《かかと》に障るように、食っ附いて歩きながら云った。
「笑談《じょうだん》お言いでない。」お松も実は余り心丈夫でもなかったが、半分は意地で強そうな返事をした。
 二階では稀《まれ》に一しきり強い風が吹き渡る時、その音が聞えるばかりであったが、下に降りて見ると、その間にも絶えず庭の木立の戦《そよ》ぐ音や、どこかの開き戸の蝶番《ちょうつがい》の弛《ゆる》んだのが、風にあおられて鳴る音がする。その間に一種特別な、ひゅうひゅうと、微《かす》かに長く引くような音がする。どこかの戸の隙間から風が吹き込む音ででもあるだろうか。その断えては続く工合が、譬《たと》えば人がゆっくり息をするようである。
「お松さん。ちょいとお待ちよ。」お花はお松の袖を控えて、自分は足を止めた。
「なんだねえ。出し抜けに袖にぶら下がるのだもの。わたしびっくりしたわ。」お松もこうは云ったが、足を止めた。
「あの、ひゅうひゅうと云うのはなんでしょう。」
「そうさねえ。梯子を降りた時から聞えてるわねえ。どこかここいらの隙間から風が吹き込むのだわ。」
 二人は暫く耳を欹《そばだ》てて聞いていた。そしてお松がこう云った。「なんでもあんまり遠いとこじゃなくってよ。それに板の隙間では、あんな音はしまいと思うわ。なんでも障子の紙かなんかの破れた処から吹き込むようだねえ。あの手水場《ちょうずば》の高い処にある小窓の障子かも知れないわ。表の手水場のは硝子《ガラス》戸だけれども、裏のは紙障子だわね。」
「そうでしょうか。いやあねえ。わたしもう手水なんか我慢して、二階へ帰って寝ようかしら。」
「馬鹿な事をお言いでない。わたしそんなお附合いなんか御免だわ。帰りたけりゃあ、花ちゃんひとりでお帰り。」
「ひとりではこわいから、そんなら一しょに行ってよ。」
 二人は又歩き出した。一足歩くごとに、ひゅうひゅうと云う音が心持近くなるようである。障子の穴に当たる風の音だろうとは、二人共思っているが、なんとなく変な音だと云う感じが底にあって、それがいつまでも消えない。
 お花は息を屏《つ》めてお松の跡に附いて歩いているが、頭に血が昇って、自分の耳の中でいろいろな音がする。それでいて、ひゅうひゅうと云う音だけは矢張際立って聞えるのである。お松も余り好い気持はしない。お花が陽にお松を力にしているように、お松も陰にはお花を力にしているのである。
 便所が段々近くなって、電灯の小さい明りの照し出す範囲が段々広くなって来るのがせめてもの頼みである。
 二人はとうとう四畳半の処まで来た。右手の壁は腰の辺から硝子戸になっているので、始《はじめ》て外が見えた。石灯籠の笠には雪が五六寸もあろうかと思う程積もっていて、竹は何本か雪に撓《たわ》んで地に着きそうになっている。今立っている竹は雪が堕《お》ちた跡で、はね上がったのであろう。雪はもう降っていなかった。
 二人は覚えず足を止めて、硝子戸の外を見て、それから顔を見合わせた。二人共相手の顔がひどく青いと思った。電灯が小さいので、雪明りに負けているからである。
 ひゅうひゅうと云う音は、この時これまでになく近く聞えている。
「それ御覧なさい。あの音は手水場でしているのだわ。」お松はこう云ったが、自分の声が不断と変っているのに気が附いて、それと同時にぞっと寒けがした。
 お花はこわくて物が言えないのか、黙って合点《がってん》々々をした。
 二人は急いで用を足してしまった。そして前に便所に這入る前に立ち留まった処へ出て来ると、お松が又立ち留まって、こう云った。
「手水場の障子は破れていなかったのねえ。」
「そう。わたし見なかったわ。それどこじゃないのですもの。さあ、こんなとこにいないで、早く行きましょう。」お花の声は震えている。
「まあ、ちょいとお待ちよ。どうも変だわ
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