の主はお蝶と云って、今年の夏田舎から初奉公に出た、十七になる娘である。お蝶は下野《しもつけ》の結城《ゆうき》で機屋をして、困らずに暮しているものの一人娘であるが、婿を嫌って逃げ出して来たと云うことであった。間もなく親元から連れ戻しに親類が出たが、強情を張って帰らない。親類も川桝の店が、料理店ではあっても、堅い店だと云うことを呑み込んで、とうとう娘の身の上をこの内のお上さんに頼んで置いて帰ってしまった。それが帰ると、又間もなく親類だと云って、お蝶を尋ねて来た男がある。十八九ばかりの書生風の男で、浴帷子《ゆかた》に小倉袴《こくらばかま》を穿いて、麦藁《むぎわら》帽子を被《かぶ》って来たのを、女中達が覗《のぞ》いて見て、高麗蔵《こまぞう》のした「魔風《まかぜ》恋風」の東吾《とうご》に似た書生さんだと云って騒いだ。それから寄ってたかってお蝶を揶揄ったところが、おとなしいことはおとなしくても、意気地のある、張りの強いお蝶は、佐野と云うその書生さんの身の上を、さっぱりと友達に打ち明けた。佐野さんは親が坊さんにすると云って、例の殺生石《せっしょうせき》の伝説で名高い、源翁《げんおう》禅師を開基としている安穏寺《あんおんじ》に預けて置くと、お蝶が見初《みそ》めて、いろいろにして近附いて、最初は容易に聴かなかったのを納得させた。婿を嫌ったのは、佐野さんがあるからの事であった。安穏寺の住職は東京で新しい教育を受けた、物分りの好い人なので、佐野さんの人柄を見て、うるさく品行を非難するような事をせずに、「君は僧侶《そうりょ》になる柄の人ではないから、今のうちに廃《よ》し給え」と云って、寺を何がなしに逐《お》い出してしまった。そこで佐野さんは、内情を知らない親達が、住職の難癖を附けずに出家を止めるのを聞いて、げにもと思うらしいのに勢を得て、お蝶より先きに東京に出て、或る私立学校に這入《はい》った。お蝶が東京に出たのは、佐野さんの跡を慕って来たのであった。
 佐野さんはその後も、度々川桝へお蝶に逢いに来て、一寸話しては帰って行く。お客になって来たことはない。お蝶の親元からも度々人が出て来る。婿取の話が矢張続いているらしい。婿は機屋と取引上の関係のある男で、それをことわっては、機屋で困るような事情があるらしい。佐野さんは、初めはお蝶をなだめ賺《すか》すようにしてあしらっている様子であったが、段々
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