歎かわしく思うだけです。勿論政略上|已《や》むことを得ない場合のあることは、僕だって認めています。」
「ロシアのような国では盛んに遣っているというじゃないか」と、山田が云った。
「そりゃあ caviar《カウィア》 にする」と、犬塚が厭《いや》らしい笑い顔をした。これも局長に聞いた詞であろう。
 山田は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》っている。
 木村は山田の顔を見て、気の毒がるような様子をした。そしてこう云った。
「あれは外国から這入る印刷物を検閲して、活版に使う墨で塗り消すことさ。黒くするからカウィアにするというのだろう。ところが今年は剪刀《はさみ》で切ったり、没収したりし出した。カウィアは片側で済むが、切り抜かれちゃ両面無くなる。没収せられればまるで無くなる。」
 山田は無邪気に笑った。
 暫く一同黙って弁当を食っていたが、山田は何か気に掛かるという様子で、また言い出した。
「あんな連中がこれから殖えるだろうか。」
「殖えられて溜《た》まるものか」と、犬塚は叱《しか》るように云って、特別に厚く切ってあるらしい沢庵《たくあん》を、白い、鋭い前歯で咬《か》み切った。
「木村君、どうだろう」と、山田は不安らしい顔を右隣の方へ向けた。
「先ずお国柄だから、当局が巧《たくみ》に柁《かじ》を取って行けば、殖えずに済むだろう。しかし遣りようでは、激成するというような傾きを生じ兼ねない。その候補者はどんな人間かと云うと、あらゆる不遇な人間だね。先年壮士になったような人間だね。」
 茶を飲んで席を起つものがちらほらある。
 木村は隠しから風炉鋪を出して、弁当の空箱を畳んで包んでいる。
 犬塚は楊枝《ようじ》を使いながら木村に、「まあ、少しゆっくりし給え」と云った。
 起ち掛かっていた木村は、また腰を据えて、茶碗に茶を一杯注いだ。
 二人と一しょに居残った山田は、頻《しき》りに知識欲に責められるという様子で、こんな問を出した。
「実は無政府主義というものは、どんな歴史を持っているものかと思って、こないだもある雑誌に諸大家の話の出ているのを読んで見たが、一向分からない。名附親は別として、一体どんな人が立てた主義かねえ。」
 犬塚は、「なんにしろ五六十年このかたの事だから、むずかしい歴史はないさ」と云って、木村の顔を見て、「君は大概知っているだろう」と言い足した。
 木村は少しうるさいと思ったらしく顔を蹙《しか》めたが、直ぐ思い直した様子でこう云った。「そう。僕だって別に研究したのではありませんが、近代思想の支流ですから、あらまし知っています。五十年余り前(1856)に死んだ Max《マックス》 Stirner《スチルネル》 が極端な個人主義を立てたのが端緒になっていると、一般に認められているようです。次は四十年余り前(1865)に死んだ Proudhon《プルウドン》 で、Kropotkin《クロポトキン》 が無政府主義の父と云ったのが当っているかどうかは別として、さっきも言ったように、名附親だということだけは確かです。次は始て無政府主義を実行しようとした Michael《ミカエル》 Bakunin《バクニン》 で、三十年余り前(1876)に死んでいます。それからこっちで名を知られているのは、ロンドンに逃げて行っていて、もう七十近くになっている(1842生れ)Peter《ペエテル》 Alexejewitsch《アレクセエウィッチ》 Kropotkin《クロポトキン》 で、その外には亜米利加《アメリカ》に Tucker《タッカア》 のような人物があるだけでしょう。」
「なかなか精《くわ》しいね」と、犬塚がまた冷かした。
 熱心に聞いていた山田がまた口を出した。「一体その二三人の大頭《おおあたま》はどんな人間かねえ。」
 木村は右の肱《ひじ》を卓に衝《つ》いて、頭を支えて、やや退屈らしい様子をして話している。
「スチルネルは哲学史上に大影響を与えている人で、無政府主義者と云われている人達と一しょにせられては可哀相だ。あれは本名を Johann《ヨハン》 Kaspar《カスパル》 Schmidt《シュミット》 と云って、伯林《ベルリン》で高等学校の教師をしていた。有名な、唯一者とその所有を出す時に、随分極端な議論だから、本名を署せずに出したのだ。しかし今では Reclam《レクラム》 版になっていて、誰でも読む。Proudhon《プルウドン》 は 〔Besanc,on《ベサンソン》〕 の貧乏人の子で、小さい時に、活字拾いまでしたことがあるそうだ。それでもとうとう巴里《パリイ》で議員に挙げられるまで漕《こ》ぎ付けた。大した学者ではない。スチルネルと同じように、Hegel《ヘエゲル》 を本尊にしてはいるが、ヘエゲルの本を本当に読ん
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング