は神もなけりゃあ国家もない。それだから刺客《せっかく》になっても、人を殺しても、なんのために殺すなんという理窟はいらないのだ。殺す目当になっている人間がなんの邪魔になっているというわけでもない。それを除いてどうするというわけでもない。こないだ局長さんに聞いたが、十五年ばかり前の事だそうだ。巴里《パリイ》で Emile《エミル》 Henry《アンリイ》 とかいう奴《やつ》が探偵の詰所に爆裂弾を投げ込んで、五六人殺した。それから今一つの玉を珈琲店《コオフィイてん》に投げ込んで、二人を殺して、あと二十人ばかりに怪我をさせた。そいつが死刑になる前に、爆裂弾をなんに投げ附けても好いという弁明をしたのだ。社会は無政府主義者を一|纏《まと》めに迫害しているから、こっちも社会を一纏めに敵にする。無辜《むこ》の犠牲とはなんだ、社会に生きているものに、誰一人労働者の膏血《こうけつ》を絞って、旨《うま》い物を食ったり、温い布団の上に寝たりしていないものはない。どこへ投げたって好いと云うのだ。それが君主を目差すとか、大統領を目差すとかいうことになるのは、主義を広告する効果が大きいからだと云うのだ。」
「焼けな話だね」と、山田が云った。
犬塚は笑って、「どうせ色々な原因から焼けになった連中が這入るのだから、無政府主義は焼けの偉大なるものと云っても好かろう」と云った。
役所には所々の壁に、「静かに歩むべし」と書いて貼《は》ってある位であるから、食堂の会話も大声でするものはない。だから方々に二三人ずつの会話の群が出来て、遠い席からそれに口を出すことはめったに無い。
「一体いつからそんな無法な事が始まったのだろう」と、山田が犬塚の顔を見て云った。
「そんな事は学者の木村君にでも聞かなくちゃあ駄目《だめ》だ」と云って、犬塚は黙ってこの話を聞いている木村の顔を見た。
「そうですね。僕だって別に調べて見たこともありませんよ。無政府主義も虚無主義も名附親は分かっていますがね。」いつでも木村は何か考えながら、外の人より小さい声で、ゆっくり物を言う。それに犬塚に対する時だけは誰よりも詞遣いが丁寧である。それをまた犬塚は木村が自分を敬して遠ざけるように感じて、木村という男を余り好くは思っていない。
「虚無主義とは別なのかね」と、山田が云った。
木村はこう話が面倒になって来ては困るとでも思うらしく、例の小さい声でしぶしぶ云った。
「別に虚無主義なんという纏まったものがあったのではないから、無政府主義のような極まった思想が成り立ってからは、人があんな詞を使わなくなったのだろう。」
「名附親は誰だね」と、犬塚が云った。
「自分で anarchiste《アナルシスト》 と名告《なの》って、君主だの主権者だのというものを認めない、人間の意志で縛っては貰わないと書いたのは Proudhon《プルウドン》 で、六十年程前(1849)の事でした。Nihiliste《ニヒリスト》 の方は、犬塚君はいろんな文学雑誌なんぞを好く見ておられるから御承知でしょうが、Turgenjew《ツルゲニエフ》 の父|等《ら》と子等という小説に書いてある造語ですね。あれの出たのは五十年程前(1862)でした。」
「それでは無政府主義の方が先きじゃないか」と、山田が云った。
「それはそうだ。しかしツルゲニエフがあの小説を書いた時には、まだ Bakunin《バクニン》 が無政府主義をロシアへ持って帰ってはいなかったのだ。それに虚無ということも、あの小説に書いてあるのと、後に広く使われるようになってからの虚無とは、まるで違っている。丁度 snob《スノッブ》 という詞だって、最初に Thackeray《サッカレイ》 が書いた時の意味と、今の意味とはまるで違っているようなものだ。バクニンがロシアへ帰ってからの青年の思想はツルゲニエフが、父等と子等ではない、あの新しい国という方の小説に書いている。」
「君|馬鹿《ばか》に精《くわ》しいね」と、犬塚が冷かした。
「なに文学の方の歴史に、少しばかり気を附けているだけです。世間の事は文学の上に、影がうつるようにうつっていますから、間接に分かるのです。」木村の詞は謙遜《けんそん》のようにも聞え、弁解のようにも聞えた。
「そうすると文学の本に発売禁止を食わせるのは影を捉《とら》えるようなもので、駄目なのだろうかね。」
木村が犬塚の顔を見る目はちょいと光った。木村は今云ったような犬塚の詞を聞く度に、鳥さしがそっと覗《うかが》い寄って、黐竿《もちざお》の尖《さき》をつと差し附けるような心持がする。そしてこう云った。
「しかし影を見て動くものもあるのですから、影を消すのが全く無功ではないでしょう。ただ僕は言論の自由を大事な事だと思っていますから、発売禁止の余り手広く行われるのを
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