這入り下さいまし、大変お久し振でございますね」と奥さんは云って、退紅色の粗い形《かた》の布団を掛けた置炬燵《おきごたつ》を脇へ押し遣って、桐《きり》の円火鉢の火を掻き起して、座敷の真ん中に鋪《し》いてある、お嬢様の据わりそうな、紫縮緬《むらさきちりめん》の座布団の前に出した。炬燵の傍《かたわら》には天外《てんがい》の長者星が開けて伏せてあった。
己は奥さんの態度に意外な真面目と意外な落着きとを感じた。只例の謎《なぞ》の目のうちに、微かな笑《えみ》の影がほのめいているだけであった。奥さんがどんな態度で己に対するだろうという、はっきりした想像を画くことは、己には出来なかった。しかし目前の態度が意外だということだけは直ぐに感ぜられた。そして一種の物足らぬような情と、萌芽《ほうが》のような反抗心とが、己の意識の底に起った。己が奥さんを「敵」として視る最初は、この瞬間であったかと思う。
奥さんは人に逢うのを予期してでもいたかと思われるように、束髪の髪の毛一筋乱れていなかった。こん度は己も奥さんの着物をはっきり記憶している。羽織はついぞ見たことのない、黄の勝った緑いろの縮緬であった。綿入はお召縮緬だろう。明るい褐色に、細かい黒い格子があった。帯は銀色に鈍く光る、粗い唐草のような摸様《もよう》であった。薄桃色の帯揚げが、際立って艶《えん》に若々しく見えた。
己は良心の軽い呵責《かしゃく》を受けながら、とうとう読んで見ずにしまったラシイヌの一巻を返した。奥さんは見遣りもせず手にも取らずに、「お帰りの時、どれでも外のをお持ちなさいまし」と云った。
前からあったのと同じ桐の火鉢が出る。茶が出る。菓子が出る。しづえは静かに這入って静かに立って行《ゆ》く。一間のうちはしんとしていて、話が絶えると、衝く息の音が聞える程である。二重に鎖《とざ》された戸の外には風の音もしないので、汽車が汽笛を鳴らして過ぎる時だけ、実世間の消息が通うように思われるのである。
奥さんは己の返した一つの火鉢を顧みないで、指の尖《さき》の驚くべく細い、透き徹るような左の手を、退紅色摸様の炬燵布団の上に載せて、稍《やや》神経質らしく指を拡げたりすぼめたりしながら、目を大きく※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、122−7]《みは》って己の顔をじっと見て、「お烟草《たばこ》を上がりませんの」だの、「この頃あなた何をしていらっしって」だのというような、無意味な問を発する。己も勉めて無意味な返事をする。己は何か言いながら、覚えず奥さんの顔とお雪さんの顔とを較べて見た。
まあ、なんという違いようだろう。お雪さんの、血の急流が毛細管の中を奔《はし》っているような、ふっくりしてすべっこくない顔には、刹那も表情の変化の絶える隙《ひま》がない。埒《らち》もない対話をしているのに、一一《いちいち》の詞《ことば》に応じて、一一の表情筋の顫動《せんどう》が現れる。Naif《ナイイフ》な小曲にsensible《サンシイブル》な伴奏がある。
それに較べて見ると、青み掛かって白い、希臘《ギリシャ》風に正しいとでも云いたいような奥さんの顔は、殆どmasque《マスク》である。仮面である。表情の影を強いて尋ねる触角は尋ね尋ねて、いつでも大きい濃い褐色の瞳《ひとみ》に達してそこに止まる。この奥にばかり何物かがある。これがあるので、奥さんの顔には今にも雷雨が来《こ》ようかという夏の空の、電気に飽いた重くるしさがある。鷙鳥《しちょう》や猛獣の物をねらう目だと云いたいが、そんなに獰猛《どうもう》なのではない。Nymphe《ニンフ》というものが熱帯の海にいたら、こんな目をしているだろうか。これがなかったら奥さんの顔をmine de mort《ミイヌ ド モオル》と云っても好かろう。美しい死人の顔色と云っても好かろう。
そういう感じをいよいよ強めるのは、この目にだけある唯一の表情が談話と合一しない事である。口は口の詞を語って、目は目の詞を語る。謎の目を一層謎ならしめて、その持主をSphinx《スファンクス》にする処はここにある。
或る神学者がdogma《ドグマ》は詞だと云うと、或る他の神学者が詞は詞だが、「強いられたる」詞だと云ったと聞いたが、奥さんの目の謎に己の与えた解釈も強いられたる解釈である。
己がこの日記を今の形のままでか、又はその形を改めてか、世に公にする時が来るだろうか。それはまだ解釈せられない疑問である。仮に他日これを読む人があるとして、己はここでその読む人に言う。「読者よ。僕は君に或る不可思議な告白をせねばならない。そしてその告白の端緒はこれから開ける」
奥さんの目の謎は伝染する。その謎の詞に己の目も応答しなくてはならなくなる。
夜の静けさと闇とに飽いている上野の森を背に負うた、根岸の家の一間で、電燈は軟《やわらか》い明りを湛《たた》え、火鉢の火が被った白い灰の下から、羅《うすぎぬ》を漏る肌の光のように、優しい温《あたた》まりを送る時、奥さんと己とは、汽車の座席やホテルの食卓を偶然共にした旅人と旅人とが語り交すような対話をしている。万人に公開しても好《い》いような対話である。初度の会見の折の出来事を閲《けみ》して来た己が、決して予期していなかった対話である。
それと同時に奥さんはその口にする詞の一語一語を目の詞で打消して、「あなたとわたくしとの間では、そんな事はどうでも好うございまさあねえ」とでもいうように、ironiquement《イロニックマン》に打消して全く別様な話をしている。Une persuasion puissante et chaleureuse《ユヌ ペルシュアジョン ピュイッサント エエ シャリヨナリヨオズ》である。そして己の目は無慙《むざん》に、抗抵なくこの話に引き入れられて、同じ詞を語る。
席と席とは二三尺を隔てて、己の手を翳《かざ》しているのと、奥さんに閑却せられているのと、二つの火鉢が中に置いてある。そして目は吸引し、霊は回抱する。一団の火焔《かえん》が二人を裹《つつ》んでしまう。
己はこういう時間の非常に長いのを感じた。その時間は苦痛の時間である。そして或る瞬間に、今あからさまに覚える苦痛を、この奥さんを知ってからは、意識の下で絶間なく、微《かすか》に覚えているのであったという発見が、稲妻のように、地獄の焔《ほのお》と烟《けむり》とに巻かれている、己の意識を掠《かす》めて過ぎた。
この間《あいだ》に苦痛は次第に奥さんを敵として見させるようになった。時間が延びて行《ゆ》くに連れて、この感じが段々長じて来た。若《も》し己が強烈な意志を持っていたならば、この時席を蹴《け》て起《た》って帰っただろう。そして奥さんの白い滑かな頬を批《う》たずに帰ったのを遺憾としただろう。
突然なんの著明な動機もなく、なんの過渡《かと》もなしに。(この下日記の紙一枚引き裂きあり)
その時己は奥さんの目の中《うち》の微笑が、凱歌《がいか》を奏するような笑《わらい》に変じているのを見た。そして一たび断《た》えた無意味な、余所々々《よそよそ》しい対話が又続けられた。奥さんを敵とする己の感じは愈々《いよいよ》強まった。奥さんは云った。
「わたくし二十七日に立って、箱根の福住《ふくずみ》へ参りますの。一人で参っておりますから、お暇ならいらっしゃいましな」
「さようですね。僕は少し遣って見ようかと思っている為事《しごと》がありますから、どうなりますか分りません。もう大変遅くなりました」
「でもお暇がございましたらね」
奥さんが、傍に這っている、絹糸を巻いた導線の尖の控鈕《ぼたん》を押すと、遠くにベルの鳴る音がした。廊下の足音が暫くの間はっきり聞えていてから、次の間まで来たしづえの御用を伺う声がした。呼ばなければ来ないように訓練してあるのだなと、己は思った。
しづえは己を書棚のある洋室へ案内するのである。己は迂濶《うかつ》にも、借りている一巻を返すことに就いてはいろいろ考えていたが、跡を借《かり》るということに就いてはちっとも考えていなかった。己は思案する暇《ひま》もなく、口実の書物を取り換えに座を起った。打勝たれた人の腑甲斐《ふがい》ない感じが、己の胸を刺した。
先きに立って這入って、電燈を点じてくれたしづえと一しょに、己は洋室にいたとき、意識の海がまだ波立っていた為めか、お雪さんと一しょにいるより、一層強い窘迫《きんぱく》と興奮とを感じた。しかしこの娘はフランスの小説や脚本にある部屋附きの女中とは違って、おとなしく、つつましやかに、入口《いりくち》の傍に立ち留まって、両手の指を緋鹿子《ひがのこ》の帯上げの上の処で、からみ合わせていた。こういう時に恐るべき微笑もせずに、極めて真面目に。
己は選びもせずに、ラシイヌの外《ほか》の一巻を抽《ぬ》き出して、持《も》て来た一巻を代りに入れて置いて、しづえと一しょに洋室を出た。
己を悩ました質《しち》の、ラシイヌの一巻は依然として己の手の中《うち》に残ったのである。そして又己を悩まさなくては済まないだろう。
奥さんの部屋へ、暇乞《いとまごい》に覗くと、奥さんは起って送りに出た。上草履を直したしづえは、廊下の曲り角で姿の見えなくなる程距離を置いて、跡から附いて来た。
「お暇があったら箱根へいらっしゃいましね」と、静かな緩い語気で、奥さんは玄関に立っていて繰り返した。
「ええ」と云って、己は奥さんの姿に最後の一瞥《いちべつ》を送った。
髪の毛一筋も乱れていない。着物の襟をきちんと正して立っている、しなやかな姿が、又端なく己の反感を促した。敵は己を箱根へ誘致せずには置かないかなと、己は心に思いながら右の手に持っていた帽を被って出た。
空は青く晴れて、低い処を濃い霧の立ち籠《こ》めている根岸の小道を歩きながら、己は坂井夫人の人と為《な》りを思った。その時己の記憶の表面へ、力強く他の写象を排して浮き出して来たのは、ベルジック文壇の耆宿《きしゅく》Lemonnier《ルモンニエエ》の書いたAude《オオド》が事であった。あの読んだ時に、女というものの一面を余りに誇張して書いたらしく感じたオオドのような女も、坂井夫人が有る以上は、決して無いとは云われない。
恥辱のペエジはここに尽きる。
己は拙《まず》い小説のような日記を書いた。
十六
十二月二十五日になった。大抵腹を立てるような事はあるまいと、純一の推測していた瀬戸が、一昨日《おとつい》谷中の借家へにこにこして来て、今夜|亀清楼《かめせいろう》である同県人の忘年会に出ろと勧めたのである。純一は旧主人の高縄《たかなわ》の邸《やしき》へ名刺だけは出して置いたが、余り同県人の交際を求めようとはしないでいるので、最初断ろうとした。しかし瀬戸が勧めて已《や》まない。会に出る人のうちに、いろいろな階級、いろいろな職業の人があるのだから、何か書こうとしている純一が為めには、面白い観察をすることが出来るに違いないと云うのである。純一も別に明日《あす》何をしようという用事が極《き》まってもいなかったので、とうとう会釈負けをしてしまった。
丁度瀬戸のいるところへ、植長の上《かみ》さんのお安《やす》というのが、亭主の誕生日なので拵《こしら》えたと云って赤飯を重箱に入れて、煮染《にしめ》を添えて持って来た。何も馳走がなかったのに、丁度|好《い》いというので、純一は茶碗や皿を持て来て貰うことにして、瀬戸に出すと、上さんは茶を入れてくれた。黒繻子《くろじゅす》の領《えり》の掛かったねんねこ絆纏《ばんてん》を着て、頭を櫛巻《くしまき》にした安の姿を、瀬戸は無遠慮に眺めて、「こんなお上さんの世話を焼いてくれる内があるなら、僕なんぞも借りたいものだ」と云った。「田舎者で一向届きませんが、母がまめに働くので、小泉さんのお世話は好くいたします」と謙遜《けんそん》する。
「なに、届かないものか。紺足袋を穿《は》いている処を見ても、稼人《かせぎにん》だということは分かる」と云う。
「
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