る。根岸の家の居間ですら、騒がしい都会の趣はないのであるが、ここは又全く人間に遠ざかった境《さかい》で、その静寂の中《うち》にOndine《オンジイヌ》のような美人を見出すだろうと思った。それに純一は今|先《ま》ずFaune《フォオヌ》の笑声を聞かなくてはならないのである。
廊下に出迎えた女を見れば、根岸で見たしづ枝である。
「お待ちなさっていらっしゃいますから、どうぞこちらへ」ここで客の受取り渡しがある。前哨線が張ってあるようなものだと、純一は思った。そして何物が掩護《えんご》せられてあるのか。その神聖なる場所は、岡村という男との差向いの場所ではないか。根岸で嬉しく思ったことを、ここでは直ぐに厭に思う。地を易《か》うれば皆|然《しか》りである。
次の間に入って跪《ひざまず》いたしづ枝が、「小泉様がお出でになりました」と案内をして、徐《しず》かに隔ての障子を開けた。
「さあ、こっちへ這入《はい》り給え。奥さんがお待兼だ」声を掛けたのは岡村である。さすがに主客の行儀は好《い》い。手あぶりは別々に置かれて、茶と菓子とが出る。しかし奥さんの傍《そば》にある置炬燵《おきごたつ》は、又純一
前へ
次へ
全282ページ中259ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング