ノは残っているが、そんな事が相応に繁華な土地に、今あろうとは思われない。現に東京では、なんの故障もなく留めてくれたではないか。
不思議だとは思うが、誰に問うて見ようもない。お伽話《とぎばなし》にある、魔女に姿を変えられた人のような気がしてならないのである。
純一はとうとう巡査の派出所に行って、宿泊の世話をして貰いたいと云った。巡査は四十ばかりの、flegmatique《フレグマチック》な、寝惚《ねぼ》けたような、口数を利かない男で、純一が不平らしく宿屋に拒絶せられた話をするのを聞いても、当り前だとも不当だとも云わない。縁《ふち》の焦げた火鉢に、股火《またび》をして当っていたのが、不精らしく椅子を離れて、机の上に置いてあった角燈を持って、「そんならこっちへお出でなさい」と云って、先きに立った。
巡査が純一を連れて行って立ち留まったのは、これまで純一が叩いたような、新築の宿屋と違って、壁も柱も煤《すす》で真っ黒に染まった家の門《かど》であった。もう締めてある戸を開けさせて、巡査が何か掛け合った。話は直ぐに纏《まと》まったらしい。中から頭を角刈にして、布子の下に湯帷子《ゆかた》を重ねて
前へ
次へ
全282ページ中241ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング