言い出す機会がない。持って来た紹介状も、さっきから見れば、封が切らずにある。紹介状も見ず、用事も問わずに、知らない人に行きなり飯を食わせるというような事は、話にも聞いたことがない。ひどい勝手の違いようだと思っているのである。ところが、大石の考《かんがえ》は頗る単純である。純一が自分を崇拝している青年の一人《いちにん》だということは、顔の表情で知れている。田中が紹介状を書いたのを見ると、何処《どこ》から来たということも知れている。Y県出身の崇拝者。目前で大飯を食っている純一のattribute《アトリビュウト》はこれで尽きている。多言を須《もち》いないと思っているのである。
 飯が済んで、女中が膳を持って降りた。その時大石はついと立って、戸棚から羽織を出して着ながらこう云った。
「僕は今から新聞社に行くから、又遊びに来給え。夜は行《い》けないよ」
 机の上の書類を取って懐《ふところ》に入れる。長押《なげし》から中折れの帽を取って被る。転瞬倏忽《てんしゅんしゅくこつ》の間に梯子段を降りるのである。純一は呆《あき》れて帽を攫《つか》んで後《あと》に続いた。

     参

 初めて大石を尋
前へ 次へ
全282ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング