の中《うち》の一人なのである。飯が済むと、女中は片手に膳、片手に土瓶を持って起《た》ちながら、こう云った。
「お客様をお通し申しましょうか」
「うむ、来ても好《い》い」
返事はしても、女中の方を見もしない。随分そっけなくして、笑談《じょうだん》一つ言わないのに、女中は飽くまで丁寧にしている。それは大石が外の客の倍も附届《つけとどけ》をするからである。窓掛一件の時亭主が閉口して引っ込んだのも、同じわけで、大石は下宿料をきちんと払う。時々は面倒だから来月分も取って置いてくれいなんぞと云うことさえある。袖浦館の上から下まで、大石の金力に刃向うものはない。それでいて、着物なんぞは随分質素にしている。今着ている銘撰《めいせん》の綿入と、締めている白縮緬《しろちりめん》のへこ帯とは、相応に新しくはあるが、寝る時もこのまま寝て、洋服に着換えない時には、このままでどこへでも出掛けるのである。
大石が東京新聞を見てしまって、傍に畳《かさ》ねて置いてある、外の新聞二三枚の文学欄だけを拾読《ひろいよみ》をする処へ、さっきの名刺の客が這入ってきた。二十二三の書生風の男である。縞《しま》の綿入に小倉袴を穿い
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