って恐れ入らせたそうだ。この部屋の主人は大石狷太郎である。
 大石は今顔を洗って帰って来て、更紗《さらさ》の座布団の上に胡坐をかいて、小さい薬鑵《やかん》の湯気を立てている火鉢を引き寄せて、敷島《しきしま》を吹かしている。そこへ女中が膳を持って来る。その膳の汁椀《しるわん》の側《そば》に、名刺が一枚載せてある。大石はちょいと手に取って名前を読んで、黙って女中の顔を見た。女中はこう云った。
「御飯を上がるのだと申しましたら、それでは待っていると仰《おっ》しゃって、下にいらっしゃいます」
 大石は黙って頷《うなず》いて飯を食い始めた。食いながら座布団の傍《そば》にある東京新聞を拡げて、一面の小説を読む。これは自分が書いているのである。社に出ているうちに校正は自分でして置いて、これだけは毎朝一字残さずに読む。それが非常に早い。それからやはり自分の担当している附録にざっと目を通す。附録は文学欄で填《うず》めていて、記者は四五人の外《ほか》に出《い》でない。書くことは、第一流と云われる二三人の作の批評だけであって、その他の事には殆ど全く容喙《ようかい》しないことになっている。大石自身はその二三人
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