ことがあります。次の幕はあの足音のした二階を見せることになっています」
「おや、あなたフランス学者」奥さんはこう云って、何か思うことあるらしく、にっこり笑った。
丁度この時幕が開いたので、答うることを須《もち》いない問のような、奥さんの詞は、どういう感情に根ざして発したものか、純一には分からずにしまった。
舞台では檻《おり》の狼《おおかみ》のボルクマンが、自分にピアノを弾いて聞せてくれる小娘の、小さい心の臓をそっと開けて見て、ここにも早く失意の人の、苦痛の萌芽《ほうが》が籠もっているのを見て、強いて自分の抑鬱不平の心を慰めようとしている。見物は只娘フリイダの、小鳥の囀《さえず》るような、可哀《かわゆ》らしい声を聞いて、浅草公園の菊細工のある処に這入って、紅雀の籠《かご》の前に足を留めた時のような心持になっている。
「まあ、可哀《かわい》いことね」と縹色のお嬢さんの※[#「※」は「口+耳」、第3水準1−14−94、59−6]《ささや》くのが聞えた。
小鳥のようなフリイダが帰って、親鳥の失敗詩人が来る。それも帰る。そこへ昔命に懸けて愛した男を、冷酷なきょうだいに夫にせられて、不治の病に体のしんに食い込まれているエルラが、燭《しょく》を秉《と》って老いたる恋人の檻に這入って来る。妻になったという優勝の地位の象徴ででもあるように、大きい巾《きれ》を頭に巻き附けた夫人グンヒルドが、扉の外で立聞をして、恐ろしい幻のように、現れて又消える。爪牙《そうが》の鈍った狼のたゆたうのを、大きい愛の力で励まして、エルラはその幻の洞窟《どうくつ》たる階下の室に連れて行《ゆ》こうとすると、幕が下りる。
又見物の席が明るくなる。ざわざわと、風が林をゆするように、人の話声が聞えて来る。純一は又奥さんの目が自分の方に向いたのを知覚した。
「これからどうなりますの」
「こん度は又二階の下です。もうこん度で、あらかた解決が附いてしまいます」
奥さんに詞を掛けられてから後《のち》は、純一は左手の令嬢二人に、鋭い観察の対象にせられたように感ずる。令嬢が自分の視野に映じている間は、その令嬢は余所《よそ》を見ているが、正面を向くか、又は少しでも右の方へ向くと、令嬢の視線が矢のように飛んで来て、自分の項《うなじ》に中《あた》るのを感ずる。見ていない所の見える、不愉快な感じである。Y県にいた時の、中学の理学の教師に、山村というお爺いさんがいて、それがSpiritisme《スピリチスム》に関する、妙な迷信を持っていた。その教師が云うには、人は誰でも体の周囲《まわり》に特殊な雰囲気を有している。それを五官を以てせずして感ずるので、道を背後《うしろ》から歩いて来る友達が誰《たれ》だということは、見返らないでも分かると云った。純一は五官を以てせずして、背後《はいご》に受ける視線を感ずるのが、不愉快でならなかった。
幕が開《あ》いた。覿面《てきめん》に死と相見ているものは、姑息《こそく》に安んずることを好まない。老いたる処女エルラは、老いたる夫人の階下の部屋へ、檻の獣《けもの》を連れて来る。鷸蚌《いっぽう》ならぬ三人に争われる、獲《え》ものの青年エルハルトは、夫人に呼び戻されて、この場へ帰る。母にも従わない。父にも従わない。情誼《じょうぎ》の縄で縛ろうとするおばにも従わない。「わたくしは生きようと思います」と云う、猛烈な叫声を、今日の大向うを占めている、数多《あまた》の学生連に喝采《かっさい》せられながら、萎《しお》れる前に、吸い取られる限《かぎり》の日光を吸い取ろうとしている花のようなヴィルトン夫人に連れられて、南国をさして雪中を立とうとする、銀の鈴の附いた橇《そり》に乗りに行《ゆ》く。
この次の幕間《まくあい》であった。少し休憩の時間が長いということが、番附にことわってあったので、見物が大抵一旦席を立った。純一は丁度自分が立とうとすると、それより心持早く右手の奥さんが立ったので、前後から人に押されて、奥さんの体に触れては離れ、離れては触れながら、外の廊下の方へ歩いて行く。微《かすか》なparfum《パルフュウム》の※[#「※」は「勹+二」、第3水準1−14−75、61−2]《におい》がおりおり純一の鼻を襲うのである。
奥さんは振り向いて、目で笑った。純一は何を笑ったとも解《かい》せぬながら、行儀好く笑い交した。そして人に押されるのが可笑しいのだろうと、跡から解釈した。
廊下に出た。純一は人が疎《まばら》になったので、遠慮して奥さんの傍《そば》を離れようと思って、わざと歩度を緩め掛けた。しかしまだ二人の間に幾何《いくばく》の距離も出来ないうちに、奥さんが振り返ってこう云った。
「あなたフランス語をなさるのなら、宅に書物が沢山ございますから、見にいらっしゃいまし。新し
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