じをせずにはいられないのである。
二十七日の晩に、電車で数寄屋橋《すきやばし》まで行って、有楽座に這入《はい》ると、パルケットの四列目あたりに案内せられた。見物はもうみんな揃《そろ》って、興行主の演説があった跡で、丁度これから第一幕が始まるという時であった。
東京に始めて出来て、珍らしいものに言い囃《はや》されている、この西洋風の夜の劇場に這入って見ても、種々の本や画《え》で、劇場の事を見ている純一が為めには、別に目を駭《おどろ》かすこともない。
純一の席の近処は、女客ばかりであった。左に二人並んでいるのは、まだどこかの学校にでも通っていそうな廂髪《ひさしがみ》の令嬢で、一人は縹色《はなだいろ》の袴《はかま》、一人は菫色《すみれいろ》の袴を穿《は》いている。右の方にはコオトを着たままで、その上に毛の厚いskunks《スカンクス》の襟巻をした奥さんがいる。この奥さんの左の椅子が明いていたのである。
純一が座に着くと、何やら首を聚《あつ》めて話していた令嬢も、右手の奥さんも、一時に顔を振り向けて、純一の方を向いた。縹色のお嬢さんは赤い円顔で、菫色のは白い角張った顔である。その角張った顔が何やらに似ている。西洋人が胡桃《くるみ》を噬《か》み割らせる、恐ろしい口をした人形がある。あれを優しく女らしくしたようである。国へ演説に来たとき、一度見た事のある島田三郎という人に、どこやら似ている。どちらも美しくはない。それと違って、スカンクスの奥さんは凄《すご》いような美人で、鼻は高過ぎる程高く、切目の長い黒目勝《くろめがち》の目に、有り余る媚《こび》がある。誰《たれ》やらの奥さんに、友達を引き合せた跡で、「君、今の目附は誰にでもするのだから、心配し給うな」と云ったという話があるが、まあ、そんな風な目である。真黒い髪が多過ぎ長過ぎるのを、持て余しているというように見える。お嬢さん達はすぐに東西の桟敷を折々きょろきょろ見廻して、前より少し声を低めたばかり、大そうな用事でもあるらしく話し続けている。奥さんは良《や》や久しい間、純一の顔を無遠慮に見ていたのである。
「そら、幕が開《あ》いてよ」と縹のお嬢さんが菫のお嬢さんをつついた。「いやあね。あんまりおしゃべりに実が入《い》って知らないでいたわ」
桟敷が闇《くら》くなる。さすが会員組織で客を集めただけあって、所々の話声がぱったり止《や》む。舞台では、これまでの日本の芝居で見物の同情を惹《ひ》きそうな理窟《りくつ》を言う、エゴイスチックなボルクマン夫人が、倅《せがれ》の来るのを待っている処へ、倅ではなくて、若かった昔の恋の競争者で、情に脆《もろ》い、じたらくなような事を言う、アルトリュスチックな妹エルラが来て、長い長い対話が始まる。それを聞いているうちに、筋の立った理窟を言う夫人の、強そうで弱みのあるのが、次第に同情を失って、いくじのなさそうな事を言う妹の、弱そうで底力のあるのに、自然と同情が集まって来る。見物は少し勝手が違うのに気が附く。対話には退屈しながら、期待の情に制せられて、息を屏《つ》めて聞いているのである。ちと大き過ぎた二階の足音が、破産した銀行頭取だと分かる所で、こんな影を画くような手段に馴れない見物が、始めて新しい刺戟を受ける。息子の情婦のヴィルトン夫人が出る。息子が出る。感情が次第に激して来る。皆引っ込んだ跡に、ボルクマン夫人が残って、床の上に身を転がして煩悶《はんもん》するところで幕になった。
見物の席がぱっと明るくなった。
「ボルクマン夫人の転がるのが、さぞ可笑《おか》しかろうと思ったが、存外可笑しかないことね」と菫色が云った。
「ええ。可笑しかなくってよ。とにかく、変っていて面白いわね」と縹色が答えた。
右の奥さんは、幕になるとすぐ立ったが、間もなく襟巻とコオトなしになって戻って来た。空気が暖《あたたか》になって来たからであろう。鶉縮緬《うずらちりめん》の上着に羽織、金春式唐織《こんぱるしきからおり》の丸帯であるが、純一は只黒ずんだ、立派な羽織を着ていると思って見たのである。それから膝《ひざ》の上に組み合せている指に、殆ど一本一本|指環《ゆびわ》が光っているのに気が着いた。
奥さんの目は又純一の顔に注がれた。
「あなたは脚本を読んでいらっしゃるのでしょう。次の幕はどんな処でございますの」
落ち着いた、はっきりした声である。そしてなんとなく金石《きんせき》の響を帯びているように感ぜられる。しかし純一には、声よりは目の閃きが強い印象を与えた。横着らしい笑《えみ》が目の底に潜んでいて、口で言っている詞《ことば》とは、まるで別な表情をしているようである。そう思うと同時に、左の令嬢二人が一斉に自分の方を見たのが分かった。
「こん度の脚本は読みませんが、フランス訳で読んだ
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