しい。縛《いましめ》がまだ解けないのである。
幹事が拊石を送り出すを相図に、会員はそろそろ帰り始めた。
八
純一が梯子段の処に立っていると、瀬戸が忙《いそが》しそうに傍へ来て問うのである。
「君、もうすぐに帰るか」
「帰る」
「それじゃあ、僕は寄って行《い》く処があるから、失敬するよ」
門口《かどぐち》で別れて、瀬戸は神田の方へ行《ゆ》く。倶楽部へ来たときから、一しょに話していた男が、跡から足を早めて追っ駈けて行った。
純一が小川町《おがわまち》の方へ一人で歩き出すと、背後《うしろ》を大股《おおまた》に靴で歩いて来る人のあるのに気が附いた。振り返って見れば、さっき大村という名刺をくれた医科の学生であった。並ぶともなしに、純一の右側を歩きながら、こう云った。
「君はどっちへ帰るのです」
「谷中にいます」
「瀬戸は君の親友ですか」
「いいえ。親友というわけではないのですが、国で中学を一しょに遣ったものですから」
なんだか言いわけらしい返事である。血色の好《い》い、巌乗《がんじょう》な大村は、純一と歩度を合せる為めに、余程加減をして歩くらしいのである。小川町の通を須田町の方へ、二人は暫く無言で歩いている。
両側の店にはもう明りが附いている。少し風が出て、土埃《ほこり》を捲き上げる。看板ががたがた鳴る。天下堂の前の人道を歩きながら、大村が「電車ですか」と問うた。
「僕は少し歩こうと思います」
「元気だねえ。それじゃあ、僕も不精をしないで歩くとしようか。しかし君は本郷へ廻っては損でしょう」
「いいえ。大した違いはありません」
又暫く詞が絶えた。大村が歩度を加減しているらしいので、純一はなるたけ大股に歩こうとしている。しかし純一は、大村が無理をして縮める歩度は整っているのに、自分の強いて伸べようとする歩度は乱れ勝になるように感ずるのである。そしてそれが歩度ばかりではない。只なんとなく大村という男の全体は平衡を保っているのに、自分は動揺しているように感ずるのである。
この動揺の性質を純一は分析して見ようとしている。ところが、それがひどくむずかしい。先頃大石に逢った時を顧みれば、彼を大きく思って、自分を小さく思ったに違いない。しかし彼が何物をか有しているとは思わない。自分も相応に因襲や前極めを破壊している積りでいたのに、大石に逢って見れば、彼の破壊は自分なんぞより周到であるらしい。自分も今|一洗濯《ひとせんたく》したら、あんな態度になられるだろうと思った。然《しか》るに今日拊石の演説を聞いているうちに、彼が何物をか有しているのが、髣髴《ほうふつ》として認められた様である。その何物かが気になる。自分の動揺は、その何物かに与えられた波動である。純一は突然こう云った。
「一体新人というのは、どんな人を指して言うのでしょう」
大村は純一の顔をちょいと見た。そして目と口との周囲に微笑の影が閃《ひらめ》いた。
「さっき拊石さんがイブセンを新しい人だと云ったから、そう云うのですね。拊石さんは妙な人ですよ。新人というのが嫌いで、わざわざ新しい人と云っているのです。僕がいつか新人と云うと、新人とは漢語で花娵《はなよめ》の事だと云って、僕を冷かしたのです」
話が横道へ逸《そ》れるのを、純一はじれったく思って、又出直して見た。
「なる程旧人と新人ということは、女の事にばかり云ってあるようですね。そんなら僕も新しい人と云いましょう。新しい人はつまり道徳や宗教の理想なんぞに捕われていない人なんでしょうか。それとも何か別の物を有している人なんでしょうか」
微笑が又閃く。
「消極的新人と積極的新人と、どっちが本当の新人かと云うことになりますね」
「ええ。まあ、そうです。その積極的新人というものがあるでしょうか」
微笑が又閃く。
「そうですねえ。有るか無いか知らないが、有る筈《はず》には相違ないでしょう。破壊してしまえば、又建設する。石を崩しては、又積むのでしょうよ。君は哲学を読みましたか」
「哲学に就いては、少し読んで見ました。哲学その物はなんにも読みません」正直に、躊躇せずに答えたのである。
「そうでしょう」
夕《ゆうべ》の昌平橋は雑沓《ざっとう》する。内神田の咽喉《いんこう》を扼《やく》している、ここの狭隘《きょうあい》に、おりおり捲き起される冷たい埃《ほこり》を浴びて、影のような群集《ぐんじゅ》が忙《せわ》しげに摩《す》れ違っている。暫くは話も出来ないので、影と一しょに急ぎながら空を見れば、仁丹の広告燈が青くなったり、赤くなったりしている。純一は暫く考えて見て云った。
「哲学が幾度建設せられても、その度毎に破壊せられるように、新人も積極的になって、何物かを建設したら、又その何物かに捕われるのではないでしょうか」
「捕われるので
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