の時小さくなった。そしてその上に何物をも小さくする、最後の人類がひょこひょこ跳《おど》っているのである。我等は幸福を発見したと、最後の人類は云って、目をしばだたくのである。日本人は色々な主義、色々なイスムを輸入して来て、それを弄《もてあそ》んで目をしばだたいている。何もかも日本人の手に入《い》っては小さいおもちゃになるのであるから、元が恐ろしい物であったからと云って、剛《こわ》がるには当らない。何も山鹿素行《やまがそこう》や、四十七士や、水戸浪士を地下に起して、その小さくなったイブセンやトルストイに対抗させるには及ばないのです」まあ、こんな調子である。
 それから新しい事でもなんでもないが、純一がこれまで蓄えて持っている思想の中心を動かされたのは拊石が諷刺《ふうし》的な語調から、忽然《こつぜん》真面目になって、イブセンの個人主義に両面があるということを語り出した処であった。拊石は先《ま》ず、次第にあらゆる習慣の縛《いましめ》を脱して、個人を個人として生活させようとする思想が、イブセンの生涯の作の上に、所謂《いわゆる》赤い糸になって一貫していることを言った。「種々の別離を己は閲《けみ》した」という様な心持である。これを聞いている間は、純一もこれまで自分が舟に棹《さお》さして下って行く順流を、演説者も同舟の人になって下って行くように感じていた。ところが、拊石は話頭を一転して、「これがイブセンの自己の一面です、Peer Gynt《ペエル ギント》に詩人的に発揮している自己の一面です、世間的自己です」と結んで置いて、別にイブセンには最初から他の一面の自己があるということを言った。「若しこの一面がなかったら、イブセンは放縦《ほうじゅう》を説くに過ぎない。イブセンはそんな人物ではない。イブセンには別に出世間的自己があって、始終向上して行《ゆ》こうとする。それがBrand《ブラント》に於いて発揮せられている。イブセンは何の為めに習慣の朽ちたる索《つな》を引きちぎって棄てるか。ここに自由を得て、身を泥土《でいど》に委《ゆだ》ねようとするのではない。強い翼に風を切って、高く遠く飛ぼうとするのである」純一はこれを聞いていて、その語気が少しも荘重に聞かせようとする様子でなく、依然として平坦な会話の調子を維持しているにも拘《かかわ》らず、無理に自分の乗っている船の舳先《へさき》を旋《めぐ》らして逆に急流を溯《さかのぼ》らせられるような感じがして、それから暫くの間は、独りで深い思量に耽《ふけ》った。
 譬《たと》えば長い間集めた物を、一々心覚えをして箱に入れて置いたのを、人に上を下へと掻《か》き交ぜられたような物である。それを元の通りにするのはむずかしい。いや、元の通りにしようなんぞとは思わない。元の通りでなく、どうにか整頓しようと思う。そしてそれが出来ないのである。出来ないのは無理もない。そんな整頓は固《もと》より一朝一夕に出来る筈の整頓ではないのである。純一の耳には拊石の詞が遠い遠い物音のように、意味のない雑音になって聞えている。
 純一はこの雑音を聞いているうちに、ふと聴衆の動揺を感じて、殆ど無意識に耳を欹《そばだ》てると、丁度拊石がこう云っていた。
「ゾラのClaude《クロオド》は芸術を求める。イブセンのブラントは理想を求める。その求めるものの為めに、妻をも子をも犠牲にして顧みない。そして自分も滅びる。そこを藪睨《やぶにらみ》に睨んで、ブラントを諷刺だとさえ云ったものがある。実はイブセンは大真面目である。大真面目で向上の一路を示している。悉皆《しっかい》か絶無か。この理想はブラントという主人公の理想であるが、それが自己より出《い》でたるもの、自己の意志より出でたるものだという所に、イブセンの求めるものの内容が限られている。とにかく道は自己の行《ゆ》く為めに、自己の開く道である。倫理は自己の遵奉《じゅんぽう》する為めに、自己の構成する倫理である。宗教は自己の信仰する為めに、自己の建立する宗教である。一言《いちげん》で云えば、Autonomie《オオトノミイ》である。それを公式にして見せることは、イブセンにも出来なんだであろう。とにかくイブセンは求める人であります。現代人であります。新しい人であります」
 拊石はこう云ってしまって、聴衆は結論だかなんだか分らずにいるうちに、ぶらりとテエブルを離れて前に据わっていた座布団の上に戻った。
 あちこちに拍手するものがあったが、はたが応ぜないので、すぐに止《や》んでしまった。多数は演説が止んでもじっと考えている。一座は非常に静かである。
 幹事が閉会を告げた。
 下女が鰻飯《うなぎめし》の丼《どんぶり》を運び出す。方々で話声はちらほら聞えて来るが、その話もしめやかである。自分自分で考えることを考えているら
前へ 次へ
全71ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング