目を思い出させた。純一は先の日にちらと見たばかりで、その後この娘の事を一度も思い出さずにいたが、今又ふいとその顔を見て、いつの間にか余程親しくなっているような心持がした。意識の閾《しきい》の下を、この娘の影が往来していたのかも知れない。婆あさんはこう云った。
「おや、いらっしゃいまし。安《やす》は団子坂まで買物に参りましたが、もう直《じき》に帰って参りましょう。まあ一寸《ちょっと》こちらへいらっしゃいまし」
「往《い》っても好くって」
「ええええ。あちらから廻っていらっしゃいまし」
 少女の頭は萩の茂みの蔭に隠れた。婆あさんは純一に、少女が中沢という銀行頭取の娘で、近所の別荘にいるということ、娵の安がもと別荘で小間使をしていて娘と仲好《なかよし》だということを話した。
 その隙《ひま》に植木屋の勝手の方へ廻ったお雪さんは、飛石伝いに離れの前に来た。中沢の娘はお雪さんというのである。
 婆あさんが、「この方が今度越していらっしゃった小泉さんという方でございます」というと、お雪さんは黙ってお辞儀をして、純一の顔をじいっと見て立っている。着物も羽織もくすんだ色の銘撰《めいせん》であるが、長い袖の八口《やつくち》から緋縮緬《ひぢりめん》の襦袢《じゅばん》の袖が飜《こぼ》れ出ている。
 飲み掛けた茶を下に置いて、これも黙ってお辞儀をした純一の顔は赤くなったが、お雪さんの方は却《かえ》って平気である。そして稍々《やや》身を反らせているかと思われる位に、真直に立っている。純一はそれを見て、何だか人に逼《せま》るような、戦《たたかい》を挑むような態度だと感じたのである。
 純一は何とか云わなくてはならないと思ったが、どうも詞《ことば》が見付からなかった。そして茶碗を取り上げて、茶を一口に飲んだ。婆あさんが詞を挟んだ。
「お嬢様は好く画を見にいらっしゃいましたが、小泉さんは御本をお読みなさるのですから、折々いらっしゃって御本のお話をお聞きなさいますと宜しゅうございます。御本のお話はお好きでございましょう」
「ええ」
 純一は、「僕は本は余り読みません」と云った。言って了《しま》うと自分で、まあ、何と云う馬鹿気た事を言ったものだろうと思った。そしてお雪さんの感情を害しはしなかったかと思って、気色《けしき》を伺った。しかしお雪さんは相変らず口元に微笑を湛《たた》えているのである。
 その微笑が又純一には気になった。それはどうも自分を見下《みくだ》している微笑のように思われて、その見下されるのが自分の当然受くべき罰のように思われたからである。
 純一はどうにかして名誉を恢復《かいふく》しなくてはならないような感じがした。そして余程勇気を振り起して云った。
「どうです。少しお掛なすっては」
「難有《ありがと》う」
 右の草履が碾磑《ひきうす》の飛石を一つ踏んで、左の草履が麻の葉のような皴《しゅん》のある鞍馬の沓脱《くつぬぎ》に上がる。お雪さんの体がしなやかに一捩《ひとねじ》り捩られて、長い書生羽織に包まれた腰が蹂口に卸された。
 諺《ことわざ》にもいう天長節日和の冬の日がぱっと差して来たので、お雪さんは目映《まぶ》しそうな顔をして、横に純一の方に向いた。純一が国にいるとき取り寄せた近代美術史に、ナナという題のマネエの画があって、大きな眉刷毛《まゆばけ》を持って、鏡の前に立って、一寸横に振り向いた娘がかいてあった。その稍や規則正し過ぎるかと思われるような、細面《ほそおもて》な顔に、お雪さんが好く似ていると思うのは、額を右から左へ斜《ななめ》に掠《かす》めている、小指の大きさ程ずつに固まった、柔かい前髪の為めもあろう。その前髪の下の大きい目が、日に目映しがっても、少しも純一には目映しがらない。
「あなたお国からいらっしった方のようじゃあないわ」
 純一は笑いながら顔を赤くした。そして顔の赤くなるのを意識して、ひどく忌々しがった。それに出し抜けに、美中に刺《し》ありともいうべき批評の詞を浴《あび》せ掛けるとは、怪《け》しからん事だと思った。
 婆あさんはお鉢を持って、起《た》って行った。二人は暫く無言でいた。純一は急に空気が重くろしくなったように感じた。
 垣の外を、毛皮の衿《えり》の附いた外套《がいとう》を着た客を載せた車が一つ、田端の方へ走って行った。
 とうとう婆あさんが膳を下げに来るまで、純一は何の詞をも見出《みいだ》すことを得なかった。婆あさんは膳と土瓶とを両手に持って、二人の顔を見競《みくら》べて、「まあ、大相《たいそう》お静《しずか》でございますね」と云って、勝手へ行った。
 蹲の向うの山茶花《さざんか》の枝から、雀が一羽飛び下りて、蹲の水を飲む。この不思議な雀が純一の結ぼれた舌を解《ほど》いた。
「雀が水を飲んでいますね」
「黙っていらっしゃ
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