に広い往来になっているからであろう。
 話はいつ極まるともなく極まったという工合である。一巡《ひとまわり》して来て、蹂口に据えてある、大きい鞍馬石《くらまいし》の上に立ち留まって、純一が「午《ひる》から越して来ても好《い》いのですか」と云うと、蹲の傍《そば》の苔《こけ》にまじっている、小さい草を撮《つま》んで抜いていた婆あさんが、「宜しいどころじゃあございません、この通りいつでもお住まいになるように、毎日掃除をしていますから」と云った。
 隣の植木屋との間は、低い竹垣になっていて、丁度純一の立っている向うの処に、花の散ってしまった萩《はぎ》がまん円《まる》に繁っている。その傍に二度咲のダアリアの赤に黄の雑《まじ》った花が十ばかり、高く首を擡《もた》げて咲いている。その花の上に青み掛かった日の光が一ぱいに差しているのを、純一が見るともなしに見ていると、萩の茂みを離れて、ダアリアの花の間へ、幅の広いクリイム色のリボンを掛けた束髪の娘の頭がひょいと出た。大きい目で純一をじいっと見ているので、純一もじいっと見ている。
 婆あさんは純一の視線を辿《たど》って娘の首を見着けて、「おやおや」と云った。
「お客さま」
 答を待たない問の調子で娘は云って、にっこり笑った。そして萩の茂みに隠れてしまった。
 純一は午後越して来る約束をして、忙がしそうにこの家の門を出た。植木屋の前を通るとき、ダアリアの咲いているあたりを見たが、四枚並べて敷いてある御蔭石《みかげいし》が、萩の植わっている処から右に折れ曲っていて、それより奥は見えなかった。

     四

 初音町に引き越してから、一週間目が天長節であった。
 瀬戸の処へは、越した晩に葉書を出して、近い事だから直ぐにも来るかと思ったが、まだ来ない。大石の処へは、二度目に尋ねて行って、詩人になりたい、小説が書いて見たいと云う志願を話して見た。詩人は生れるもので、己《おれ》がなろうと企てたってなられるものではないなどと云って叱られはすまいかと、心中危ぶみながら打ち出して見たが、大石は好《い》いとも悪いとも云わない。稽古《けいこ》のしようもない。修行のしようもない。只書いて見るだけの事だ。文章なんぞというものは、擬古文でも書こうというには、稽古の必要もあろうが、そんな事は大石自身にも出来ない。自身の書いているものにも、仮名違《かなちがい》なんぞは沢山あるだろう。そんな事には頓着《とんじゃく》しないで遣《や》っている。要するに頭次第だと云った。それから、とにかく余り生産的な為事《しごと》ではないが、その方はどう思っているかと問われたので、純一が資産のある家の一人息子に生れて、パンの為めに働くには及ばない身の上だと話すと、大石は笑って、それでは生活難と闘わないでも済むから、一廉《ひとかど》の労力の節減は出来るが、その代り刺戟《しげき》を受けることが少いから、うっかりすると成功の道を踏みはずすだろうと云った。純一は何の掴《つか》まえ処もない話だと思って稍《や》や失望したが、帰ってから考えて見れば、大石の言ったより外に、別に何物かがあろうと思ったのが間違で、そんな物はありようがないのだと悟った。そしてなんとなく寂しいような、心細いような心持がした。一度は、家主《いえぬし》の植長《うえちょう》がどこからか買い集めて来てくれた家具の一つの唐机《とうづくえ》に向って、その書いて見るということに著手《ちゃくしゅ》しようとして見たが、頭次第だと云う頭が、どうも空虚で、何を書いて好《い》いか分らない。東京に出てからの感じも、何物かが有るようで無いようで、その有るようなものは雑然としていて、どこを押えて見ようという処がない。馬鹿らしくなって、一旦持った筆を置いた。
 天長節の朝であった。目が醒《さ》めて見ると、四畳半の東窓の戸の隙《すき》から、オレンジ色の日が枕の処まで差し込んで、細かい塵《ちり》が活溌《かっぱつ》に跳《おど》っている。枕元に置いて寝た時計を取って見れば、六時である。
 純一は国にいるとき、学校へ御真影を拝みに行ったことを思い出した。そしてふいと青山の練兵|場《ば》へ行って見ようかと思ったが、すぐに又自分で自分を打ち消した。兵隊の沢山並んで歩くのを見たってつまらないと思ったのである。
 そのうち婆あさんが朝飯を運んで来たので、純一が食べていると、「お婆あさん」と、優しい声で呼ぶのが聞えた。純一の目は婆あさんの目と一しょに、その声の方角を辿って、南側の戸口の処から外へ、ダアリアの花のあたりまで行くと、この家を借りた日に見た少女の頭が、同じ処に見えている。リボンはやはりクリイム色で容赦なく※[#「※」は「目+爭」、第3水準1−88−85、26−10]《みひら》いた大きい目は、純一が宮島へ詣《まい》ったとき見た鹿の
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