したが、君は気が附きませんでしたか」
「気が附かなくて。あれは、君、有名な高畠詠子《たかばたけえいこ》さんだよ」
「そうですか」と云った純一は、心の中《うち》になる程と頷《うなず》いた。東京の女学校長で、あらゆる毀誉褒貶《きよほうへん》を一身に集めたことのある人である。校長を退《しりぞ》いた理由としても、種々の風説が伝えられた。国にいたとき、田中先生の話に、詠子さんは演説が上手で、或る目的を以て生徒の群に対して演説するとなると、ナポレオンが士卒を鼓舞するときの雄弁の面影があると云った。悪徳新聞のあらゆる攻撃を受けていながら、告別の演説でも、全校の生徒を泣かせたそうである。それも一時《いちじ》の感動ばかりではない。級《クラス》ごとに記念品を贈る委員なぞが出来たとき、殆ど一人《いちにん》もその募りに応ぜなかったものはないということである。とにかく英雄である。絶えず自己の感情を自己の意志の下《もと》に支配している人物であろうと、純一は想像した。
「女丈夫だとは聞いていましたが、一寸見てもあれ程態度の目立つ人だとは思わなかったのです」
「うん。態度のrepresentative[# 二つ目の「e」は「´」付き]《ルプレザンタチイヴ》な女だね」
「それに実際えらいのでしょう」
「えらいのですとも。君、オオトリシアンで、まだ若いのに自殺した学者があったね。Otto《オットオ》 Weininger《ワイニンゲル》というのだ。僕なんぞはニイチェから後《のち》の書物では、あの人の書いたものに一番ひどく動《うごか》されたと云っても好《い》いが、あれがこう云う議論をしていますね。どの男でも幾分か女の要素を持っているように、どの女でも幾分か男の要素を持っている。個人は皆M+Wだというのさ。そして女のえらいのはMの比例数が大きいのだそうだ」
「そんなら詠子さんはMを余程沢山持っているのでしょう」と云いながら、純一は自分には大分Wがありそうだと思って、いやな心持がした。
 風炉敷包を持った連中は、もうさっきから黒い木札の立ててある改札口に押し掛けている。埒《らち》が開《あ》くや否や、押し合ってプラットフォオムへ出る。純一はとかくこんな時には、透くまで待っていようとするのであるが、今日大村が人を押し退《の》けようともせず、人に道を譲りもせずに、群集《ぐんじゅ》を空気扱いにして行《ゆ》くので、その背後に附いて、早く出た。
 一等室に這入って見れば、二人が先登《せんとう》であった。そこへ純一が待合室で見た洋服の男が、赤帽に革包《かばん》を持たせて走って来た。赤帽が縦側の左の腰掛の真ん中へ革包を置いて、荒い格子縞の駱駝《らくだ》の膝掛《ひざかけ》を傍《そば》に鋪《し》いた。洋服の男は外へ出た。大村が横側の後《うしろ》に腰掛けたので、純一も並んで腰を掛けた。
 続いて町のものらしい婆あさんと、若い女とが這入って来た。物馴れない純一にも、銀杏返《いちょうがえ》しに珊瑚珠《さんごじゅ》の根掛《ねがけ》をした女が芸者だろうということだけは分かった。二人の女は小さい革包を間に置いて腰を掛けたが、すぐに下駄を脱いで革包を挟んで、向き合って、きちんと据わった。二人の白足袋がsymetrique[# 一つ目の「e」は「´」付き]《シメトリック》に腰掛の縁《へり》にはみ出している。
 芸者らしい女は平気でこっちを見ている。純一は少し間の悪いような心持がしたので、救《すくい》を求めるように大村を見た。大村は知らぬ顔をして、人の馳《は》せ違うプラットフォオムを見ていた。
 乗るだけの客が大抵乗ってしまった頃に、詠子さんが同じ室《しつ》に這入って来た。さっきの洋服の男は、三等にでも乗るのであろう。挨拶をして走って行った。女学生らしい四五人がずらりと窓の外に立ち並んだ。詠子さんは開《ひら》いていた窓から、年寄の女に何か言った。
 発車の笛が鳴った。「御機嫌|宜《よろ》しゅう」、「さようなら」なんぞという詞が、愛相《あいそう》の好《よ》い女学生達の口から、囀《さえず》るように出た。詠子さんは窓の内に真っ直に立って、頤《あご》で会釈をしている。女学生の中《うち》の年上で、痩《や》せた顔の表情のひどく活溌《かっぱつ》なのが、汽車の大分遠ざかるまで、ハンケチを振って見送っていた。
 詠子さんは静かに膝掛の上に腰を卸して、マッフに両手を入れて、端然としている。
 暫《しばら》くは誰《だれ》も物を言わない。日暮里《にっぽり》の停車|場《ば》を過ぎた頃、始めて物を言い出したのは、黒《くろ》うとらしい女連《おんなづれ》であった。「往《い》くと思っているでしょうか」と若いのが云うと、「思っていなくってさ」と年を取ったのが云う。思いの外に遠慮深い小声である。しかし静かなこの室では一句も残らずに聞える。それが
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