ろうし、両方の動機を有しているのもあるでしょう。そこで新人だって積極的なものを求めて、道徳を構成しようとか、宗教を構成しようとかいうことになれば、それはどうせ利己では行《い》けないでしょうよ」
「それではどうしても又因襲のような或る物に縛《ばく》せられるのですね。いつかもその事を言ったら、あなたは縄の当り処が違うと云ったでしょう。あれがどうも好く分らないのですが」
「大変な事を記憶していましたね。僕はまあ、こんな風に思っているのです。因襲というのは、その縛《いましめ》が本能的で、無意識なのです。新人が道徳で縛られるのは、同じ縛《いましめ》でも意識して縛られるのです。因襲に縛られるのが、窃盗をした奴が逃げ廻っていて、とうとう縛られるのなら、新人は大泥坊が堂々と名乗って出て、笑いながら縛《ばく》に就くのですね。どうせ囚われだの縛《いましめ》だのという語《ことば》を使うのだから」
 大村が自分で云って置いて、自分が無遠慮に笑うので、純一も一しょになって笑った。暫くしてから純一が云った。
「そうして見ると、その道徳というものは自己が造るものでありながら、利他的であり、social《ソシアル》であるのですね」
「無論そうさ。自己が造った個人的道徳が公共的になるのを、飛躍だの、復活だのと云うのだね。だから積極的新人が出来れば、社会問題も内部から解決せられるわけでしょう」
 二人は暫く詞が絶えた。料理は小鳥の炙《あぶり》ものに萵苣《ちさ》のサラダが出ていた。それを食ってしまって、ヴェランダへ出て珈琲《コオフィイ》を飲んだ。
 勘定を済ませて、快い冬の日を角帽と鳥打帽とに受けて、東京に珍らしい、乾いた空気を呼吸しながら二人は精養軒を出た。

     十二

 二人は山を横切って、常磐華壇《ときわかだん》の裏の小さな坂を降りて、停車|場《ば》に這入《はい》った。時候が好《い》いので、近在のものが多く出ると見えて、札売場の前には草鞋《わらじ》ばきで風炉敷包《ふろしきづつみ》を持った連中が、ぎっしり詰まったようになって立っている。
「どこにしようか」と、大村が云った。
「王子も僕はまだ行ったことがないのです」と純一が云った。
「王子は余り近過ぎるね。大宮にしよう」大村はこう云って、二等待合の方に廻って、一等の札を二枚買った。
 時間はまだ二十分程ある。大村が三等客の待つベンチのある処の片隅で、煙草を買っている間に、純一は一等待合に這入って見た。
 ここで或る珍らしい光景が純一の目に映じた。
 中央に据えてある卓《テエブル》の傍《わき》に、一人の夫人が立っている。年はもう五十を余程越しているが、純一の目には四十位にしか見えない。地味ではあるが、身の廻りは立派にしているように思われた。小さく巻いた束髪に、目立つような髪飾もしていないが、鼠色《ねずみいろ》の毛皮の領巻《えりまき》をして、同じ毛皮のマッフを持っている。そして五六人の男女に取り巻かれているが、その姿勢や態度が目を駭《おどろ》かすのである。
 先《ま》ず女王がcercle《セルクル》をしているとしか思われない。留守を頼んで置く老女に用事を言い附ける。随行らしい三十歳ばかりの洋服の男に指図をする。送って来たらしい女学生風の少女に一人一人訓戒めいた詞を掛ける。切口状《きりこうじょう》めいた詞が、血の色の極淡い脣《くちびる》から凛《りん》として出る。洗錬を極めた文章のような言語に一句の無駄がない。それを語尾一つ曖昧《あいまい》にせずに、はっきり言う。純一は国にいたとき、九州の大演習を見に連れて行《ゆ》かれて、師団長が将校集まれの喇叭《ラッパ》を吹かせて、命令を伝えるのを見たことがある。あの時より外には、こんな口吻《こうふん》で物を言う人を見たことがないのである。
 純一は心のうちで、この未知の夫人と坂井夫人とを比較することを禁じ得なかった。どちらも目に立つ女であって、どこか技巧を弄《ろう》しているらしい、しかしそれが殆ど自然に迫っている。外《ほか》の女は下手が舞台に登ったようである。丁度芸術にも日本には或るmanierisme[# 一つ目の「e」は「´」付き]《マニエリスム》が行われているように、風俗にもそれがある。本で読んだり、画で見たりする、西洋の女のように自然が勝っていない。そしてその技巧のある夫人の中で、坂井の奥さんが女らしく怜悧《れいり》な方の代表者であるなら、この奥さんは女丈夫《じょじょうふ》とか、賢夫人とか云われる方の代表者であろうと思った。
 そこへ、純一はどこへ行ったかと見廻しているような様子で、大村が外から覗いたので、純一はすぐに出て行って、一しょに三等客の待っているベンチの側《そば》の石畳みの上を、あちこち歩きながら云った。
「今一等待合にいた夫人は、当り前の女ではないようで
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