のを感じた。その躊躇している虚に乗ずるように、色々な記憶が現れて来る。しなやかな体の起《た》ちよう据わりよう、意味ありげな顔の表情、懐かしい声の調子が思い出される。そしてそれを惜む未錬の情のあることを、我ながら抹殺《まっさつ》してしまうことが出来ないのである。又してもこの部屋であの態度を見たらどうだろうなどと思われる。脱ぎ棄てた吾嬬《あづま》コオト、その上に置いてあるマッフまでが、さながら目に見えるようになるのである。
純一はふと気が附いて、自分で自分を嘲って、又Huysmans《ヒュイスマンス》を読み出した。Durtal《ドュルタル》という主人公が文芸家として旅に疲れた人なら、自分はまだ途《みち》に上らない人である。ドュルタルは現世界に愛想《あいそ》をつかして、いっその事カトリック教に身を投じようかと思っては、幾度《いくたび》かその「空虚に向っての飛躍」を敢てしないで、袋町から踵《くびす》を旋《めぐ》らして帰るのである。それがなぜ愛想をつかしたかと思うと、実に馬鹿らしい。現世界は奇蹟の多きに堪《た》えない。金なんぞも大いなる奇蹟である。何か為事をしようと思っている人の手には金がない。金のある人は何も出来ない。富人が金を得れば、悪業《あくぎょう》が増長する。貧人が金を得れば堕落の梯《はしご》を降《くだ》って行《ゆ》く。金が集まって資本になると、個人を禍《わざわい》するものが一変して人類を禍するものになる。千万の人はこれがために餓死して、世界はその前に跪《ひざまず》く。これが悪魔の業《わざ》でないなら、不可思議であろう。奇蹟であろう。この奇蹟を信ぜざることを得ないとなれば、三位一体《さんみいったい》のドグマも信ぜられない筈がなくなると云うのである。
純一は顔を蹙《しか》めた。そして作者の厭世《えんせい》主義には多少の同情を寄せながら、そのカトリック教を唯一の退却路にしているのを見て、因襲というものの根ざしの強さを感じた。
十一時半頃に大村が尋ねて来た。月曜日の午前の最終一時間の講義と、午後の臨床講義とは某教授の受持であるのに、その人が事故があって休むので、今日は遠足でもしようかと思うということである。純一はすぐに同意して云った。
「僕はまだちっとも近郊の様子を知らないのです。天気もひどく好《い》いから、どこへでも御一しょに行《い》きましょう」
「天気はこの頃の事さ。外国人が岡目八目で、やっぱり冬寒くなる前が一番|好《い》いと云っているね」
「そうですかねえ。どっちの方へ行《い》きますか」
「そうさ。僕もまだ極めてはいないのです。とにかく上野から汽車に乗ることにするさ」
「もうすぐ午《ひる》ですね」
「上野で食って出掛けるさ」
純一が袴《はかま》を穿いていると、大村は机の上に置いてある本を手に取って見た。
「大変なものを読んでいるね」
「そうですかね。まだ初めの方を見ているのですが、なんだかひどく厭世的な事が書いてあります」
「そうそう。行《ゆ》き留まりのカトリック教まで行って、半分道だけ引き返して、霊的自然主義になるという処でしょう」
「ええ。そこまで見たのです。一体先きはどうなるのですか」
こう云いながら、純一は袴を穿いてしまって、鳥打帽を手に持った。大村も立って戸口に行って腰を掛けて、編上沓《あみあげぐつ》を穿き掛けた。
「まあ、歩きながら話すから待ち給え」
純一は先きへ下駄を引っ掛けて、植木屋の裏口を覗《のぞ》いて、午食《ひる》をことわって置いて、大村と一しょに歩き出した。大村と並んで歩くと、動《やや》もすればこの巌乗《がんじょう》な大男に圧倒せられるような感じのするのを禁じ得ない。
純一の感じが伝わりでもしたように、大村は一寸《ちょっと》純一の顔を見て云った。
「ゆっくり行《い》こうね」
なんだか譲歩するような、庇護《ひご》するような口調であった。しかし純一は不平には思わなかった。
「さっきの小説の先きはどうなるのですか」と、純一が問うた。
「いや。大変なわけさ。相手に出て来る女主人公は正真正銘のsataniste《サタニスト》なのだからね。しかしドュルタルは驚いて手を引いてしまうのです。フランスの社会には、道徳も宗教もなくなって、只悪魔主義だけが存在しているという話になるのです。今まであの作者のものは読まなかったのですか」
「ええ。つい読む機会がなかったのです。あの本も註文して買ったのではないのです。瀬戸が三才社に大分沢山フランスの小説が来ていると云ったので、往って見たとき、ふいと買ったのです」
「瀬戸はフランスは読めないでしょう」
「読めないのです。学校で奨励しているので、会話かなんかを買いに行ったとき、見て来て話したのです」
「そんな事でしょう。まあ、読んで見給え。随分猛烈な事が書いてあるのだ。一体
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