一二枚開けて見たが、読む気になれなかった。そこでこんなクラッシックなものは、気分のもっと平穏な時に読むべきものだと、自分で自分に言いわけをした。それから二三日前に、神田の三才社《さんさいしゃ》で見附けて、買って帰ったHuysmans《ヒュイスマンス》の小説のあったのを出して、読みはじめた。
 小説家たる主人公と医者の客との対話が書いてある。話題は過ぎ去ったものとしての自然主義の得失である。次第次第に実世間に遠ざかって、しまいには殆ど縁の切れたようになった文芸を、ともかくも再び血のあり肉のあるものにしたのは、この主義の功績である。しかし煩瑣《はんさ》な、冗漫な文字《もんじ》で、平凡な卑猥《ひわい》な思想を写すに至ったこの主義の作者の末路を、飽くまで排斥する客の詞にも、確に一面の真理がある。
 自然主義の功績を称《とな》える処には、バルザックが挙げてある。フロオベルが挙げてある。ゴンクウルが挙げてある。最後にゾラが挙げてある。とにかく立派な系図である。
 純一は日本でのen miniature《アン ミニアチュウル》自然主義運動を回顧して、どんなに贔屓目《ひいきめ》に見ても、さ程|難有《ありがた》くもないように思った。純一も東京に出て、近く寄って預言者を見てから、渇仰《かっこう》の熱が余程冷却しているのである。
 対話が済んで客が帰る。主人公が独りで物を考えている。そこにこんな事が書いてある。「材料の真実な事、部分部分の詳密な事、それから豊富で神経質な言語、これ等は写実主義の保存せられなくてはならない側である。しかしその上に霊的価値を汲《く》むものとならなくてはならない。奇蹟《きせき》を官能の病で説明しようとしてはならない。人生に霊と体《たい》との二つの部分があって、それが鎔合《ようごう》せられている。寧ろ混淆《こんこう》せられている。小説も出来る事なら、そんな風に二つの部分があらせたい。そしてその二つの部分の反応《はんおう》、葛藤《かっとう》、調和を書くことにしたい。一言《いちごん》で言えば、ゾラの深く穿《うが》って置いた道を踏んで行《ゆ》きながら、別にそれと併行している道を空中に通ぜさせたい。それが裏面の道、背後の道である。一言で言えば霊的自然主義を建立するのである。そうなったらば、それは別様な誇りであろう。別様な完全であろう。別様な強大であろう」そういう立派な事が出来ないで、自然主義をお座敷向きにしようとするリベラルな流義と、電信体の悪く気取った文章で、徒《いたず》らに霊的芸術の真似をしていて、到底思想の貧弱を覆うことの出来ない流儀とが出来ているというのである。
 純一はここまで読んで来て、ふいと自分の思想が書物を離れて動き出した。目には文字《もんじ》を見ていて、心には別の事を思っている。
 それは自分のきのうの閲歴が体だけの閲歴であって、自分の霊は別に空中の道を歩いていると思ったのが始で、それから本に書いてある事が余所になってしまったのである。
 あの霊を離れた交を、坂井夫人はいつまで継続しようとするだろうか。きのうも既に心に浮かんだオオドのように、いつまでも己に附き纏《まと》うのだろうか。それとも夫人は目的を達するまでは、一直線に進んで来たが、既に目的を達した時が初《はじめ》の終なのであろうか。借りて帰っているラシイヌの一巻が、今は自分を向うに結び附けている一筋の糸である。あれを返すとき、向うは糸を切るであろうか。それともその一筋を二筋にも三筋にもしはすまいか。手紙をよこしはすまいか。この内へ尋ねて来はすまいか。
 こう思うと、なんだかその手紙が待たれるような気がする。その人が待たれるような気がする。あのお雪さんは度々この部屋へ来た。いくら親しくしても、気が置かれて、帰ったあとでほっと息を衝く。あの奥さんは始めて顔を見た時から気が置けない。この部屋へでもずっと這入って来て、どんなにか自然らしく振舞うだろう。何を話そうかと気苦労をするような事はあるまい。話なんぞはしなくても分かっているというような風をするだろう。
 純一はここまで考えて、空想の次第に放縦になって来るのに心附いた。そして自分を腑甲斐《ふがい》なく思った。
 自分は男子ではないか。経験のない為めに、これまでは受身になっていたにしても、何もいつまでも受身になっている筈《はず》がない。向うがどう思ったって、それにどう応ずるかはこっちに在る。もう向うの自由になっていないと、こっちが決心さえすればそれまでである。借りた本は小包にしてでも返される。手紙が来ても、開けて見なければ好《い》い。尋ねて来たら、きっぱりとことわれば好い。
 純一はここまで考えて、それが自分に出来るだろうかと反省して見た。そして躊躇《ちゅうちょ》した。それを極《き》めずに置く処に、一種の快味がある
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