止《や》む。舞台では、これまでの日本の芝居で見物の同情を惹《ひ》きそうな理窟《りくつ》を言う、エゴイスチックなボルクマン夫人が、倅《せがれ》の来るのを待っている処へ、倅ではなくて、若かった昔の恋の競争者で、情に脆《もろ》い、じたらくなような事を言う、アルトリュスチックな妹エルラが来て、長い長い対話が始まる。それを聞いているうちに、筋の立った理窟を言う夫人の、強そうで弱みのあるのが、次第に同情を失って、いくじのなさそうな事を言う妹の、弱そうで底力のあるのに、自然と同情が集まって来る。見物は少し勝手が違うのに気が附く。対話には退屈しながら、期待の情に制せられて、息を屏《つ》めて聞いているのである。ちと大き過ぎた二階の足音が、破産した銀行頭取だと分かる所で、こんな影を画くような手段に馴れない見物が、始めて新しい刺戟を受ける。息子の情婦のヴィルトン夫人が出る。息子が出る。感情が次第に激して来る。皆引っ込んだ跡に、ボルクマン夫人が残って、床の上に身を転がして煩悶《はんもん》するところで幕になった。
 見物の席がぱっと明るくなった。
「ボルクマン夫人の転がるのが、さぞ可笑《おか》しかろうと思ったが、存外可笑しかないことね」と菫色が云った。
「ええ。可笑しかなくってよ。とにかく、変っていて面白いわね」と縹色が答えた。
 右の奥さんは、幕になるとすぐ立ったが、間もなく襟巻とコオトなしになって戻って来た。空気が暖《あたたか》になって来たからであろう。鶉縮緬《うずらちりめん》の上着に羽織、金春式唐織《こんぱるしきからおり》の丸帯であるが、純一は只黒ずんだ、立派な羽織を着ていると思って見たのである。それから膝《ひざ》の上に組み合せている指に、殆ど一本一本|指環《ゆびわ》が光っているのに気が着いた。
 奥さんの目は又純一の顔に注がれた。
「あなたは脚本を読んでいらっしゃるのでしょう。次の幕はどんな処でございますの」
 落ち着いた、はっきりした声である。そしてなんとなく金石《きんせき》の響を帯びているように感ぜられる。しかし純一には、声よりは目の閃きが強い印象を与えた。横着らしい笑《えみ》が目の底に潜んでいて、口で言っている詞《ことば》とは、まるで別な表情をしているようである。そう思うと同時に、左の令嬢二人が一斉に自分の方を見たのが分かった。
「こん度の脚本は読みませんが、フランス訳で読んだ
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