ゥかわ》らず、岡村は夫人と遠慮なんぞをする必要の全く無い交際をしているのか。純一はこんな事を気に掛けて、明りのさしている障子を目守《まも》っている。今にも岡村の席を起《た》って帰る影が映りはしないかと待つのである。そして純一の為めには、それが気に掛かり、それが待たれるのが腹が立つ。恋人でもなんでもない夫人ではないか。その夫人の部屋に岡村がいつまでいようと好《い》いではないか。それをなんで自分が気にするのか。なんと云う腑甲斐《ふがい》ない事だろうと思うと、憤慨に堪《た》えない。
純一は暫く立っていたが、誰《たれ》に恥じるともなく、うしろめたいような気がして来たので、ぶらぶら歩き出した。夜《よ》に入《い》って一際《ひときわ》高くなった、早川の水の音が、純一が頭の中の乱れた情緒《じょうしょ》の伴奏をして、昼間感じたよりは強い寂しさが、虚に乗ずるように襲って来る。
柏屋に帰った。戸口を這入る時から聞えていた三味線が、生憎《あいにく》純一が部屋の上で鳴っている。女中が来て、「おやかましゅうございましょう」と挨拶をする。どんな客かと問えば、名古屋から折々見える人だと云う。来たのは無論並の女中である。特別な女中は定めて二階の客をもてなしているのであろう。
二階はなかなか賑《にぎ》やかである。わざわざ大晦日《おおみそか》の夜を騒ぎ明かす積りで来たのかも知れない。三味線の音《ね》が絶えずする。女が笑う。年増らしい女の声で、こんな呪文《じゅもん》のようなものを唱える。「べろべろの神さんは、正直な神さんで、おさきの方へお向きやれ。どこへ盃《さかずき》さあしましょ。ここ等《ら》か、ここ等か」この呪文は繰り返し繰り返しして唱えられる。一度唱える毎に、誰かが杯《さかずき》を受けるのであろう。
純一は取ってある床の中に潜り込んで、じっとしている。枕に触れて、何物をか促し立てるように、頸《くび》の動脈が響くので、それを避けようと思って寝返りをする。その脈がどうしても響く。動悸《どうき》が高まっているのであろう。それさえあるに、べろべろの神さんがしゅうねく祟《たた》って、呪文はいよいよ高く唱えられるのである。
純一は何事をも忘れて寐《ね》ようと思ったが、とても寐附かれそうにはない。過度に緊張した神経が、どんな微細な刺戟にも異様に感応《かんおう》する。それを意識が丁度局外に立って観察している
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