って恐れ入らせたそうだ。この部屋の主人は大石狷太郎である。
 大石は今顔を洗って帰って来て、更紗《さらさ》の座布団の上に胡坐をかいて、小さい薬鑵《やかん》の湯気を立てている火鉢を引き寄せて、敷島《しきしま》を吹かしている。そこへ女中が膳を持って来る。その膳の汁椀《しるわん》の側《そば》に、名刺が一枚載せてある。大石はちょいと手に取って名前を読んで、黙って女中の顔を見た。女中はこう云った。
「御飯を上がるのだと申しましたら、それでは待っていると仰《おっ》しゃって、下にいらっしゃいます」
 大石は黙って頷《うなず》いて飯を食い始めた。食いながら座布団の傍《そば》にある東京新聞を拡げて、一面の小説を読む。これは自分が書いているのである。社に出ているうちに校正は自分でして置いて、これだけは毎朝一字残さずに読む。それが非常に早い。それからやはり自分の担当している附録にざっと目を通す。附録は文学欄で填《うず》めていて、記者は四五人の外《ほか》に出《い》でない。書くことは、第一流と云われる二三人の作の批評だけであって、その他の事には殆ど全く容喙《ようかい》しないことになっている。大石自身はその二三人の中《うち》の一人なのである。飯が済むと、女中は片手に膳、片手に土瓶を持って起《た》ちながら、こう云った。
「お客様をお通し申しましょうか」
「うむ、来ても好《い》い」
 返事はしても、女中の方を見もしない。随分そっけなくして、笑談《じょうだん》一つ言わないのに、女中は飽くまで丁寧にしている。それは大石が外の客の倍も附届《つけとどけ》をするからである。窓掛一件の時亭主が閉口して引っ込んだのも、同じわけで、大石は下宿料をきちんと払う。時々は面倒だから来月分も取って置いてくれいなんぞと云うことさえある。袖浦館の上から下まで、大石の金力に刃向うものはない。それでいて、着物なんぞは随分質素にしている。今着ている銘撰《めいせん》の綿入と、締めている白縮緬《しろちりめん》のへこ帯とは、相応に新しくはあるが、寝る時もこのまま寝て、洋服に着換えない時には、このままでどこへでも出掛けるのである。
 大石が東京新聞を見てしまって、傍に畳《かさ》ねて置いてある、外の新聞二三枚の文学欄だけを拾読《ひろいよみ》をする処へ、さっきの名刺の客が這入ってきた。二十二三の書生風の男である。縞《しま》の綿入に小倉袴を穿い
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