額を照すのである。
「おや、リイケどうした」と、突然ドルフが叫んだ。リイケが蒼くなつて目を瞑《つぶ》つたのである。
「あの、けふなのかも知れません。午過から少し気分が悪かつたのですが、なんだか急にひどく悪くなつて来ました。あの、子供ですが、若しわたしが助からないやうな事があつても、どうぞ可哀がつて遣つて。」
「おつ母さん。どうも胸が裂けるやうで」と、云つた切、ドルフは涙を出して溜息をしてゐる。
 トビアスは倅の肩を敲いた。「しつかりしろ。誰でもかう云ふ時も通らんではならぬのだ。」
 ネルラは涙ぐんでリイケに言つた。「リイケや。おめでたい事なのだから、我慢おしよ。貧乏に暮してゐるものは、お金持より、子供の出来るのが嬉しいのだよ。それに復活祭やニコラウス様の日に生れるのは、別段に難有いのだからね。」
 トビアスが云つた。「おい。ドルフ、お前の方が己よりは足が達者だ。プツゼル婆あさんの所へ走つて往つてくれ。留守の間《ま》は己達がリイケの介抱をして遣るから。」
 ドルフはリイケの体を抱いて暇を告げた。桟橋が急いで行く足の下にゆらめいた。
「もう往つちまやあがつた」と、トビアスが云つた。
   
前へ 次へ
全32ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング