イイの好い匂がして来た。ネルラ婆あさんがコオフイイの臼を膝頭の間に挾んで、黒いコオフイイ豆を磨りつぶしてゐるからである。
プツゼル婆あさんは黒い大外套の襟に附いてゐる、真鍮のホオクを脱《はづ》した。そして嚢の中から目金入と編みさしの沓足袋《くつたび》とを取り出した。さて鼻柱の上に目金を載せて、編み掛けた所に編鍼を插して、ゆたかに炉の傍に陣取つた。婆あさんは編物をしながら、折々目金の縁の外から、リイケを見てゐる。リイケは不安らしく部屋の内を往つたり来たりして、折々我慢し兼ねてうめき声を出してゐる。
婆あさんはそんな時往つてリイケの頬つぺたを指で敲いて遣つて、こんな事を言ふ。「しつかりしてお出よ。自分の生んだ子が産声を立てるのを聞くと云ふものは、どの位嬉しいものだか、お前さんまだ知らないのだ。天国へ往くと、ワニイユの這入つた、甘《あま》い、牛乳と卵とのあぶくを食べながら、ワイオリンの好い音《ね》を聞くのださうだが、まあ、それと同じ心持がするのだからね。」
トビアスはいつも寝台にする、長持のやうな大箱を壁の傍に押し遣つて、自分の敷く海草を詰めた布団を二枚其上に敷いた。海草の香が部屋の内に漲つた。ネルラが其上に粗末な麻布の、雪のやうに白いのをひろげて、襞の少しもないやうに、丁寧に手の平で撫でた。オランダの鳥の毛布団のやうに軟く、敷心地を好くしようと思ふのである。
夜なか近くなつた時、プツゼル婆あさんが編物を片附けて、目金を脱《はづ》して、卓の上に置いて、腕組をして、暫く炉の火を見詰めてゐた。それから襁褓《むつき》の支度をした。それから六遍続けて欠伸《あくび》をして、片々の目を瞑《つぶ》つて、片々の目をあけてゐた。
そのうちリイケが両手の指を組み合せて、叫び出した。「プツゼルをばさん。どうかして下さい。」
「それはね、をばさんもどうもして上げることは出来ません。我慢してゐなさらなくては。」プツゼル婆あさんはかう云つた。
トビアスが傍で云つた。「もう夜なかだ。料理屋にゐる人達も内へ帰る時だ。」
リイケは繰り返して云つた。「あゝ。ドルフさん。なぜまだ帰つて下さらないのだらう。」
ネルラがリイケを慰める積で云つた。「繋《かか》つてゐる舟でも、河岸の家でも、もう段々明りを消してゐます。ドルフも今に帰つて来ませうよ。」
併しドルフは容易に帰らない。
夜なかを二時過ぎた時、リイケはひどく苦しくなつたので横になつた。プツゼル婆あさんは椅子を寝台になつてゐる大箱の傍へずらせた。ネルラは祈祷をしようと思つて、珠数を取り出した。それから又二時間|過《た》つた。
「あゝ。ドルフさん。わたし死にさうなのに、どこにお出なさるのでせう。あゝ。」
トビアスは折々舟の梯を登つて、ドルフが帰つて来はせぬかと見張つてゐる。それにドルフは帰らない。もうこのグルデンフイツシユの窓の隙《すき》から黒い水の面《おもて》に落ちてゐる明りの外には、町ぢゆうに火の光が見えなくなつてゐる。遠い礼拝堂で十五分毎に打つ鐘が、銀《しろがね》の鈴のやうに夜の空気をゆすつて、籠を飛んで出た小鳥の群のやうに、トビアスの耳のまはりに羽搏《はう》つ。次第に又家々に明りが附く。水の面に小さい星のやうにうつる燈火《ともしび》もある。そのうち冷たい、濁つた、薄緑な「暁」が町の狭い巷《こうぢ》を這ひ寄つて来る。
その時舟の中で赤子の泣声が聞えた。丁度|飼場《かひば》で羊の子が啼くやうに。
「リイケ。リイケ。」遠くからかう呼ぶのが聞えた。桟橋からブリツジへ、ブリツジから小部屋へと駆け込むのは誰だらう。別人ではない。ドルフである。うつら/\してゐたリイケが目をあいて見ると、ドルフは床の前に跪いてゐた。
トビアスは帽子を虚空に投げ上げた。ネルラは赤ん坊の口をくすぐつてゐる。プツゼル婆あさんは膝の上に載せてゐた赤ん坊をよく襁褓にくるんで、そつとドルフの手にわたした。ドルフはこは/″\赤ん坊に二三度接吻した。
ドルフは「リイケ」と呼び掛けた。リイケは両手でドルフの頭を持つて微笑んだ。そして寐入つて、明るくなるまで醒めなかつた。ドルフも跪いた儘、頭をリイケが枕の傍に押し附けて朝までゐた。二人の心臓の鼓動が諧和《かいわ》するやうに、二人の気息も調子を合せてゐたのである。
――――――――――――
或る朝ドルフが町へ往つた。
葬式の鐘が力一ぱいの響をさせてゐる。其音が丁度難船者の頭の上を鴎が啼いて通るやうに、空気を裂いて聞えわたる。
長い行列が寺の門の中に隠れた。寡婦の目の涙のやうに、黒布で包んだ贄卓《にへづくゑ》の蝋燭が赫く。
寺の石段にしやがんでゐる女乞食にドルフが問うた。「町で誰が死んだのかね。」
「お立派なお内の息子さんです。お金持の息子さんです。ジヤツク・カルナワツシユと
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