の役に大阪に与《くみ》し、戦場を逃れて人に殺された時を謂《い》つたものであらうか。若《も》しさうなら、仮に当時守範は十五歳の少年であつたとしても、品の生まれる年には、五十三歳になつてゐる筈である。兎《と》に角《かく》品は守範が流浪した後、年が寄つてから出来た女《むすめ》であらう。品を生んだ守範の妻が、麻布《あざぶ》の盛泰寺《せいたいじ》の日道《にちだう》と云ふ日蓮宗の僧の女であつたと云ふ所から考へても、守範は江戸の浪人でゐて、妻を娶《めと》つたものと思はれる。守範には二人の子があつて、姉が品で、弟を梅之助《うめのすけ》と云つたが、此梅之助は夭折《えうせつ》した。そこで守範の死んだ時には、十九歳になる品が一人残つて、盛泰寺に引き取られた。
それから中一年置いて、万治二年に品は浜屋敷の女中に抱へられて、間もなく妾になつたらしい。妾になつてから綱宗が品を厚く寵遇したと云ふことは、偶然伝へられてゐる一の事実で察せられる。それは万治三年に綱宗が罪を獲《え》て、品川の屋敷に遷《うつ》つた時、品は附いて往つて、綱宗に請うて一日の暇《いとま》を得て、日道を始、親戚故旧を会して馳走《ちそう》し、永《なが》の訣別《けつべつ》をしたと云ふ事実である。これは一切の係累を絶つて、不幸なる綱宗に一身を捧げようと云ふ趣意であつた。綱宗もそれを喜んで、品に雪薄《ゆきすゝき》の紋を遣《や》つたさうである。
品は初一念を翻《ひるがへ》さずに、とう/\二十で情交を結んだ綱宗が七十二の翁《おきな》になつて歿するまで、忠実に仕へて、綱宗が歿した時尼になつて、浄休院と呼ばれ、仙台に往つて享保元年に七十八歳で死んだ。
此間に品が四十五歳の時、綱宗が薙髪《ちはつ》し、品が四十八歳の時、初子が歿した。綱宗入道嘉心は此後二十五年の久しい年月を、品と二人で暮したと云つても大過なからう。これは別に証拠はないが、私は豪邁《がうまい》の気象を以て不幸の境遇に耐へてゐた嘉心を慰めた品を、啻《たゞ》誠実であつたのみでなく、気骨のある女丈夫《ぢよぢやうふ》であつたやうに想像することを禁じ得ない。
品は晩年に中塚十兵衛茂文と云ふ人の女《むすめ》石を養女にして、熊谷斎直清《くまがいいつきなほきよ》と云ふ人に嫁《とつ》がせて置いたので、品の亡くなつた跡を、直清の二男|常之助《つねのすけ》が立てることになつた。椙原氏は此椙原常之助から出てゐるのである。
五
綱宗が万治三年七月二十六日に品川の屋敷に遷《うつ》つてから、これを端緒として、所謂《いはゆる》仙台騒動が発展して、寛文十一年三月二十七日に、酒井忠清の屋敷で、原田甲斐が伊達安芸《だてあき》を斬つたと云ふ絶頂まで到達した。それを綱宗は純粋な受動的態度で傍看しなくてはならなかつた。品川の屋敷と云ふのは、品川の南大井村にあつた手狭な家を、寺や百姓家を取り払はせて建て拡げたのである。綱宗は家老一人を附けられて、そこに住んだ。当時|姉婿《あねむこ》花忠茂が密《ひそか》に遣《や》つた手紙に、「御やしき中《うち》忍びにて御ありきはくるしからぬ儀と存じ候」と云つて、丁寧《ていねい》に謹慎を勧めてゐる。邸内を歩くにも忍びに歩かなくてはならぬと云ふ拘束を豪邁な性《さが》を有してゐる壮年の身に受けて、綱宗は穉《をさな》い亀千代の身の上を気遣《きづか》ひ、仙台の政治を憂慮した。その時附けられてゐた家老大町備前は、さしたる人物でなかつたらしいから、綱宗が抑鬱《よくうつ》の情を打明けて語ることを得たのは、初子のみであつただらう。それに事によつたら、品も与《あづか》つたのではあるまいか。
綱宗の夢寐《むび》の間に想《おもひ》を馳《は》せた亀千代は、万治三年から寛文八年二月まで浜屋敷にゐた。此年の二月の火事に、浜屋敷は愛宕下《あたごした》の上屋敷と共に焼けた。伊達家では上屋敷を廉立《かどた》つた時に限つて使つたものらしく、綱宗の代には上屋敷が桜田にあつて、丁度今の日比谷公園東北隅の所であつたが、綱宗は上使を受ける時などに、浜屋敷から出向いたものである。亀千代は火事に逢つて、麻布|白金台《しろかねだい》に移つた。これは万治元年に桜田を幕府から召上げられた時に賜はつた替地《かへち》である。其時これまで中屋敷と云つてゐた愛宕下を、伊達家では上屋敷にした。それも浜屋敷と共に焼けたのである。それから火事のあつた年の十二月に愛宕下上屋敷の普請が出来て、亀千代はそこへ移つた。これから伊達家では不断《ふだん》上屋敷に住むことになつたのである。
此間に亀千代は、万治三年八月に二歳で家督し、寛文四年六月には六歳で徳川家綱に謁見し、愛宕下に移つてから、同九年十二月に十一歳で元服して、総次郎|綱基《つなもと》と名告《なの》り、後延宝五年正月に綱村と改名した。
そして此《この》公生涯の裏面に、綱宗の気遣《きづか》ふも無理ならぬ、暗黒なる事情が埋伏してゐた。それは前後二回に行はれた置毒《ちどく》事件である。
初のは寛文六年十一月二十七日の出来事である。是より先には亀千代は寛文二年九月に疱瘡《はうさう》をしたより外、無事でゐた。側《そば》には懐守《だきもり》と云つて、数人の侍が勤めてゐたが、十歳に足らぬ小児の事であつて見れば、実際世話をしたのは女中であらう。その主立《おもだ》つたものは鳥羽《とば》と云ふ女であつたらしい。これは江戸浪人|榊田六左衛門重能《さかきだろくざゑもんしげよし》と云ふものゝ女《むすめ》で、振姫の侍女から初子の侍女になり、遂に亀千代附になつたのである。此年には四十七歳になつてゐた。
当日亀千代の前に出る膳部《ぜんぶ》は、例によつて鬼番衆と云ふ近臣が試食した。それが二三人即死した。米山兵左衛門、千田平蔵などと云ふものである。そこで、中間《ちゆうげん》一人、犬二頭に食はせて見た。それも皆死んだ。後見|伊達兵部少輔《だてひやうぶせういう》は報《しらせ》を聞いて、熊田治兵衛と云ふものを浜屋敷に遣つて、医師|河野《かうの》道円と其子三人とを殺させた。同時に膳番以下七八人の男と女中十人|許《ばかり》とも殺されたさうである。此時女中鳥羽は毒のあつた膳部の周囲を立ち廻つてゐたとかのために、仙台へ遣つて大条玄蕃《だいでうげんば》に預けられた。鳥羽は道円に舟で饗応《きやうおう》せられたことなどがあるから、果して道円が毒を盛つたとすると、鳥羽に疑はしい節《ふし》がないでもないが、後に仙台で扶持《ふち》を受けて優遇せられてゐたことを思へば罪の有無が明かでなくなる。又道円を殺させた兵部が毒を盛らせたとすると、其目的はどこにあつただらうか。亀千代が死んでも、初子の生んだ亀千代の弟があるから、兵部の子|東市正《いちのかみ》に宗家《そうけ》を襲《つ》がせることは出来まい。然らば宗家の封《ほう》を削らせて、我家の禄を増させようとでもしたのだらうか。これは亀千代が八歳の時の出来事である。
六
二度目の置毒事件は寛文八年に白金台の屋敷で起つた。亀千代が浜屋敷で火事に逢つて移つて来てから、愛宕下の新築に入るまでの間の出来事である。頃は八月某日に原田甲斐の世話で小姓《こしやう》になつてゐた塩沢丹三郎と云ふものが、鱸《すゞき》に毒を入れて置いて、それを自ら食つて死んだ。原田に命ぜられて入れは入れたが、主に薦《すゝ》めるに忍びないで自ら食つたと云ふのである。此事は丹三郎が前晩に母に打明けて置いたので、母も刄《やいば》に伏したさうである。亀千代はもう十歳になつてゐた。丁度綱宗の漁色事件に高尾が無いやうに、此置毒事件にも終始俗説の浅岡に相当する女が無い。
亀千代のかう云ふ危い境遇を見て、初子は子のため、又品は主のため、保護しようとしたかも知れない。就中《なかんづく》初子は亀千代の屋敷に往来した形迹《けいせき》があるが、惜むらくは何事も伝はつてゐない。
次に綱宗の憂慮した仙台の政治はどうであるか。仙台騒動の此方面の中心人物は綱宗の叔父にして亀千代の後見の一人たる伊達兵部少輔であつた。兵部に結べば功なきも賞せられ、兵部に抗すれば罪なきも罰せられたと云ふわけで、秕政《ひせい》の眼目は濫賞濫罰《らんしやうらんばつ》にあつたらしい。仙台にゐて之《これ》を行つた首脳は渡辺金兵衛で、寛文三年頃から目附の地位にゐて権勢を弄《ろう》しはじめ、四年に小姓頭《こしやうがしら》になつてから、愈々《いよ/\》専横を極めた。後に伊達安芸が重罪を被《かうむ》つたもの百二十人の名を挙げてゐるのを見ても、渡辺等の横暴を察することが出来る。其中で最も際立つて見えるのは、伊東釆女《いとううねめ》が事と、伊達安芸が事とである。伊東采女は、寛文三年に病中国老になつて、間もなく歿した伊東新左衛門の養子で、それが幽閉せられて死ぬることになるのは、席次の争が本であつた。寛文七年に幕府から来た目附を饗応する時、先例は家老、評定役《ひやうぢやうやく》、著座、大番頭《おおばんがしら》、出入司《しゆつにふづかさ》、小姓頭、目附役の順序を以て、幕府の目附に謁し、杯を受けるのであるに、著座と称する家柄の采女が劫《かへ》つて目附役の次に出された。これは渡辺金兵衛等の勧《すゝめ》によつて原田甲斐が取り計らつたのである。伊達安芸は遠田《とほだ》郡を領して涌谷《わくや》に住んでゐたが、其北隣の登米《とよま》郡は伊達式部が領して、これは寺池に住んでゐた。然るに遠田郡の北境|小里《をさと》村と、登米郡|赤生津《あかふづ》村とに地境の争があつた。安芸は此時地を式部に譲つて無事に済ませた。これは寛文五年の事である。次いで七年に又|桃生《ものふ》郡の西南にある式部が領分の飛地と、これに隣接してゐる遠田郡の安芸が領地とにも地境の争が起つた。これは寛文七年の事で、八年に安芸がこれを国老に訴へ九年に検使が出張して分割したが、其結果は安芸のために頗る不利であつた。安芸はこれを憤《いきどほ》つて、十一年に死を決して江戸に上つて訴へることになつた。それゆゑこの地境の争も、采女が席次の争と同じく、原来《ぐわんらい》権利の主張ではあるが、采女も安芸も、これを機縁として渡辺等の秕政《ひせい》に反抗したのである。中にも安芸は主君のために、暴虐の臣を弾劾《だんがい》することを主とし、領分の境を正すことを従とした。これが安芸の成功した所以《ゆゑん》である。渡辺は伊達宮内少輔《だてくないせういう》に預けられて絶食して死んだ。
私は此伊達騒動を傍看してゐる綱宗を書かうと思つた。外に向つて発動する力を全く絶たれて、純客観的に傍看しなくてはならなかつた綱宗の心理状態が、私の興味を誘つたのである。私は其周囲にみやびやかにおとなしい初子と、怜悧《れいり》で気骨のあるらしい品とをあらせて、此三角関係の間に静中の動を成り立たせようと思つた。しかし私は創造力の不足と平生の歴史を尊重する習慣とに妨げられて、此|企《くはだて》を抛棄《はうき》してしまつた。
私は去年五月五日に、仙台新寺小路|孝勝寺《かうしやうじ》にある初子の墓に詣《まう》でた。世間の人の浅岡の墓と云つて参るのがそれである。古色のある玉垣《たまがき》の中に、新しい花崗石《くわかうせき》の柱を立てゝ、それに三沢初子之墓と題してある。それを見ると、近く亡くなつた女学生の墓ではないかと云ふやうな感じがする。あれは脇《わき》へ寄せて建てゝ欲しかつた。仏眼寺の品が墓へは、私は往かなかつた。
底本:「鴎外歴史文学集 第三巻」岩波書店
1999(平成11)年11月25日発行
入力:kompass
校正:しず
2001年8月31日公開
2006年5月1日修正
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