置いて、それを自ら食つて死んだ。原田に命ぜられて入れは入れたが、主に薦《すゝ》めるに忍びないで自ら食つたと云ふのである。此事は丹三郎が前晩に母に打明けて置いたので、母も刄《やいば》に伏したさうである。亀千代はもう十歳になつてゐた。丁度綱宗の漁色事件に高尾が無いやうに、此置毒事件にも終始俗説の浅岡に相当する女が無い。
 亀千代のかう云ふ危い境遇を見て、初子は子のため、又品は主のため、保護しようとしたかも知れない。就中《なかんづく》初子は亀千代の屋敷に往来した形迹《けいせき》があるが、惜むらくは何事も伝はつてゐない。
 次に綱宗の憂慮した仙台の政治はどうであるか。仙台騒動の此方面の中心人物は綱宗の叔父にして亀千代の後見の一人たる伊達兵部少輔であつた。兵部に結べば功なきも賞せられ、兵部に抗すれば罪なきも罰せられたと云ふわけで、秕政《ひせい》の眼目は濫賞濫罰《らんしやうらんばつ》にあつたらしい。仙台にゐて之《これ》を行つた首脳は渡辺金兵衛で、寛文三年頃から目附の地位にゐて権勢を弄《ろう》しはじめ、四年に小姓頭《こしやうがしら》になつてから、愈々《いよ/\》専横を極めた。後に伊達安芸が重罪を被《かうむ》つたもの百二十人の名を挙げてゐるのを見ても、渡辺等の横暴を察することが出来る。其中で最も際立つて見えるのは、伊東釆女《いとううねめ》が事と、伊達安芸が事とである。伊東采女は、寛文三年に病中国老になつて、間もなく歿した伊東新左衛門の養子で、それが幽閉せられて死ぬることになるのは、席次の争が本であつた。寛文七年に幕府から来た目附を饗応する時、先例は家老、評定役《ひやうぢやうやく》、著座、大番頭《おおばんがしら》、出入司《しゆつにふづかさ》、小姓頭、目附役の順序を以て、幕府の目附に謁し、杯を受けるのであるに、著座と称する家柄の采女が劫《かへ》つて目附役の次に出された。これは渡辺金兵衛等の勧《すゝめ》によつて原田甲斐が取り計らつたのである。伊達安芸は遠田《とほだ》郡を領して涌谷《わくや》に住んでゐたが、其北隣の登米《とよま》郡は伊達式部が領して、これは寺池に住んでゐた。然るに遠田郡の北境|小里《をさと》村と、登米郡|赤生津《あかふづ》村とに地境の争があつた。安芸は此時地を式部に譲つて無事に済ませた。これは寛文五年の事である。次いで七年に又|桃生《ものふ》郡の西南にある式部が領分の飛地と、これに隣接してゐる遠田郡の安芸が領地とにも地境の争が起つた。これは寛文七年の事で、八年に安芸がこれを国老に訴へ九年に検使が出張して分割したが、其結果は安芸のために頗る不利であつた。安芸はこれを憤《いきどほ》つて、十一年に死を決して江戸に上つて訴へることになつた。それゆゑこの地境の争も、采女が席次の争と同じく、原来《ぐわんらい》権利の主張ではあるが、采女も安芸も、これを機縁として渡辺等の秕政《ひせい》に反抗したのである。中にも安芸は主君のために、暴虐の臣を弾劾《だんがい》することを主とし、領分の境を正すことを従とした。これが安芸の成功した所以《ゆゑん》である。渡辺は伊達宮内少輔《だてくないせういう》に預けられて絶食して死んだ。
 私は此伊達騒動を傍看してゐる綱宗を書かうと思つた。外に向つて発動する力を全く絶たれて、純客観的に傍看しなくてはならなかつた綱宗の心理状態が、私の興味を誘つたのである。私は其周囲にみやびやかにおとなしい初子と、怜悧《れいり》で気骨のあるらしい品とをあらせて、此三角関係の間に静中の動を成り立たせようと思つた。しかし私は創造力の不足と平生の歴史を尊重する習慣とに妨げられて、此|企《くはだて》を抛棄《はうき》してしまつた。
 私は去年五月五日に、仙台新寺小路|孝勝寺《かうしやうじ》にある初子の墓に詣《まう》でた。世間の人の浅岡の墓と云つて参るのがそれである。古色のある玉垣《たまがき》の中に、新しい花崗石《くわかうせき》の柱を立てゝ、それに三沢初子之墓と題してある。それを見ると、近く亡くなつた女学生の墓ではないかと云ふやうな感じがする。あれは脇《わき》へ寄せて建てゝ欲しかつた。仏眼寺の品が墓へは、私は往かなかつた。



底本:「鴎外歴史文学集 第三巻」岩波書店
   1999(平成11)年11月25日発行
入力:kompass
校正:しず
2001年8月31日公開
2006年5月1日修正
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