、これに隣接してゐる遠田郡の安芸が領地とにも地境の争が起つた。これは寛文七年の事で、八年に安芸がこれを国老に訴へ九年に検使が出張して分割したが、其結果は安芸のために頗る不利であつた。安芸はこれを憤《いきどほ》つて、十一年に死を決して江戸に上つて訴へることになつた。それゆゑこの地境の争も、采女が席次の争と同じく、原来《ぐわんらい》権利の主張ではあるが、采女も安芸も、これを機縁として渡辺等の秕政《ひせい》に反抗したのである。中にも安芸は主君のために、暴虐の臣を弾劾《だんがい》することを主とし、領分の境を正すことを従とした。これが安芸の成功した所以《ゆゑん》である。渡辺は伊達宮内少輔《だてくないせういう》に預けられて絶食して死んだ。
私は此伊達騒動を傍看してゐる綱宗を書かうと思つた。外に向つて発動する力を全く絶たれて、純客観的に傍看しなくてはならなかつた綱宗の心理状態が、私の興味を誘つたのである。私は其周囲にみやびやかにおとなしい初子と、怜悧《れいり》で気骨のあるらしい品とをあらせて、此三角関係の間に静中の動を成り立たせようと思つた。しかし私は創造力の不足と平生の歴史を尊重する習慣とに妨げられて、此|企《くはだて》を抛棄《はうき》してしまつた。
私は去年五月五日に、仙台新寺小路|孝勝寺《かうしやうじ》にある初子の墓に詣《まう》でた。世間の人の浅岡の墓と云つて参るのがそれである。古色のある玉垣《たまがき》の中に、新しい花崗石《くわかうせき》の柱を立てゝ、それに三沢初子之墓と題してある。それを見ると、近く亡くなつた女学生の墓ではないかと云ふやうな感じがする。あれは脇《わき》へ寄せて建てゝ欲しかつた。仏眼寺の品が墓へは、私は往かなかつた。
底本:「鴎外歴史文学集 第三巻」岩波書店
1999(平成11)年11月25日発行
入力:kompass
校正:しず
2001年8月31日公開
2006年5月1日修正
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