れいがんじま》に住んで医を業とし、優の前妻鉄は本所|相生町《あいおいちょう》二つ目橋|通《どおり》に玩具店《おもちゃみせ》を開いた。周禎は素《もと》眼科なので、五百は目の治療をこの人に頼んだ。
 或日周禎は嗣子周策を連れて渋江氏を訪《と》い、束脩《そくしゅう》を納めて周策を保の門人とせんことを請うた。周策は已《すで》に二十九歳、保は僅《わずか》に十七歳である。保はその意を解せなかったが、これを問えば周策をして師範学校に入《い》らしむる準備をなさんがためであった。保は喜び諾して、周策をして試験諸科を温習せしめかつこれに漢文を授けた。周策は後《のち》生徒の第二次募集に応じて合格し、明治十年に卒業して山梨県に赴任したが、幾《いくばく》もなく精神病に罹って罷《や》められた。
 緑町の比良野氏では房之助《ふさのすけ》が、実父|稲葉一夢斎《いなばいちむさい》と共に骨董店を開いた。一夢斎は丹下《たんげ》が老後の名である。貞固《さだかた》は月に数度浅草|黒船町《くろふねちょう》正覚寺《しょうかくじ》の先塋《せんえい》に詣《もう》でて、帰途には必ず渋江氏を訪い、五百と昔を談じた。
 抽斎歿後の第十六年は明治七年である。五百の眼病が荏苒《じんぜん》として治《ち》せぬので、矢島周禎の外に安藤某を延《ひ》いて療せしめ、数月《すうげつ》にして治することを得た。
 水木《みき》はこの年深川|佐賀町《さがちょう》の洋品商|兵庫屋藤次郎《ひょうごやとうじろう》に再嫁した。二十二歳の時である。
 妙了尼はこの年九十四歳を以て韮山《にらやま》に歿した。
 渋江氏ではこの年|感応寺《かんのうじ》において抽斎のために法要を営んだ。五百、保、矢島|優《ゆたか》、陸《くが》、水木、比良野|貞固《さだかた》、飯田|良政《よしまさ》らが来会した。
 渋江氏の秩禄公債証書はこの年に交付せられたが、削減を経た禄を一石九十五銭の割を以て換算した金高《きんだか》は、固《もと》より言うに足らぬ小額であった。
 抽斎歿後の第十七年は明治八年である。一月《いちげつ》二十九日に保は十九歳で師範学校の業を卒《お》え、二月六日に文部省の命を受けて浜松県に赴くこととなり、母を奉じて東京を発した。
 五百、保の母子が立った後《のち》、山田脩は亀沢町の陸の許《もと》に移った。水木はなお深川佐賀町にいた。矢島|優《ゆたか》はこの頃家を畳んで三池《みいけ》に出張していた。

   その九十九

 保は母五百を奉じて浜松に著《つ》いて、初め暫《しばら》くのほどは旅店にいた。次で母子の下宿料月額六円を払って、下垂町《しもたれちょう》の郷宿《ごうやど》山田屋|和三郎《わさぶろう》方にいることになった。郷宿とは藩政時代に訴訟などのために村民が城下に出た時|舎《やど》る家をいうのである。また諸国を遊歴する書画家等の滞留するものも、大抵この郷宿にいた。山田屋は大きい家で、庭に肉桂《にっけい》の大木がある。今もなお儼存《げんそん》しているそうである。
 山田屋の向いに山喜《やまき》という居酒屋がある。保は山田屋に移った初《はじめ》に、山喜の店に大皿《おおざら》に蒲焼《かばやき》の盛ってあるのを見て五百に「あれを買って見ましょうか」といった。
「贅沢《ぜいたく》をお言いでない。鰻《うなぎ》はこの土地でも高かろう」といって、五百は止めようとした。
「まあ、聞いて見ましょう」といって、保は出て行った。価《あたい》を問えば、一銭に五串《いつくし》であった。当時浜松辺で暮しの立ちやすかったことは、これに由《よ》って想見することが出来る。
 保は初め文部省の辞令を持って県庁に往った。浜松県の官吏は過半旧幕人で、薩長政府の文部省に対する反感があって、学務課長|大江孝文《おおえたかぶみ》の如きも、頗《すこぶ》る保を冷遇した。しかし良《やや》久しく話しているうちに、保が津軽人だと聞いて、少しく面《おもて》を和《やわら》げた。大江の母は津軽家の用人|栂野求馬《とがのもとめ》の妹であった。後《のち》大江は県令|林厚徳《はやしこうとく》に稟《もう》して、師範学校を設けることにして、保を教頭に任用した。学校の落成したのは六月である。
 数月の後、保は高町《たかまち》の坂下、紺屋町西端の雑貨商|江州屋《ごうしゅうや》速見平吉《はやみへいきち》の離座敷《はなれざしき》を借りて遷《うつ》った。この江州屋も今なお存しているそうである。
 矢島優はこの年十月十八日に工部|少属《しょうさかん》を罷《や》めて、新聞記者になり、『魁《さきがけ》新聞』、『真砂《まさご》新聞』等のために、主として演劇欄に筆を執った。『魁新聞』には山田脩が倶《とも》に入社し、『真砂新聞』には森|枳園《きえん》が共に加盟した。枳園は文部省の官吏として、医学校、工学寮等に通勤しつつ、旁《かたわ》ら新聞社に寄稿したのである。
 抽斎歿後の第十八年は明治九年である。十月十日に浜松師範学校が静岡師範学校浜松支部と改称せられた。これより先八月二十一日に浜松県を廃して静岡県に併《あわ》せられたのである。しかし保の職は故《もと》の如くであった。
 この年四月に保は五百の還暦の賀延《がえん》を催して県令以下の祝《いわい》を受けた。
 五百の姉長尾氏|安《やす》はこの年|新富座附《しんとみざつき》の茶屋|三河屋《みかわや》で歿した。年は六十二であった。この茶屋の株は後《のち》敬の夫|力蔵《りきぞう》が死ぬるに及んで、他人の手に渡った。
 比良野貞固もまたこの年本所緑町の家で歿した。文化九年|生《うまれ》であるから、六十五歳を以て終ったのである。その後《のち》を襲《つ》いだ房之助さんは現に緑町一丁目に住んでいる。
 小野|富穀《ふこく》もまたこの年七月十七日に歿した。年は七十であった。子|道悦《どうえつ》が家督相続をした。
 多紀|安琢《あんたく》もまたこの年一月四日に五十三歳で歿した。名は元※[#「王+炎」、第3水準1−88−13]《げんえん》、号は雲従《うんじゅう》であった。その後を襲いだのが上総国《かずさのくに》夷隅郡《いすみごおり》総元村《そうもとむら》に現存している次男|晴之助《せいのすけ》さんである。
 喜多村|栲窓《こうそう》もまたこの年十一月九日に歿した。栲窓は抽斎の歿した頃奥医師を罷めて大塚村《おおつかむら》に住んでいたが、明治七年十二月に卒中し、右半身《ゆうはんしん》不随になり、此《ここ》に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》って終った。享年七十三である。
 抽斎歿後の第十九年は明治十年である。保は浜松|表早馬町《おもてはやうまちょう》四十番地に一戸を構え、後また幾《いくばく》ならずして元城内《もとじょうない》五十七番地に移った。浜松城は本《もと》井上《いのうえ》河内守《かわちのかみ》正直《まさなお》の城である。明治元年に徳川家が新《あらた》にこの地に封《ほう》ぜられたので、正直は翌年上総国|市原郡《いちはらごおり》鶴舞《つるまい》に徙《うつ》った。城内の家屋は皆井上家時代の重臣の第宅《ていたく》で、大手の左右に列《つらな》っていた。保はその一つに母をおらせることが出来たのである。
 この年七月四日に保の奉職している静岡師範学校浜松支部は変則中学校と改称せられた。
 兼松石居《かねまつせききょ》はこの年十二月十二日に歿した。年六十八である。絶筆の五絶と和歌とがある。「今日吾知免《こんにちわれめんをしる》。亦将騎鶴遊《またつるにのりてあそばんとす》。上帝賚殊命《じょうていしゅめいをたまう》。使爾永相休《なんじをしてながくあいやすましめんと》。」「年浪《としなみ》のたち騒ぎつる世をうみの岸を離れて舟|漕《こ》ぎ出《い》でむ。」石居は酒井《さかい》石見守《いわみのかみ》忠方《ただみち》の家来|屋代《やしろ》某の女《じょ》を娶《めと》って、三子二女を生ませた。長子|艮《こん》、字《あざな》は止所《ししょ》が家を嗣いだ。号は厚朴軒《こうぼくけん》である。艮の子|成器《せいき》は陸軍砲兵大尉である。成器さんは下総国|市川町《いちかわまち》に住んでいて、厚朴軒さんもその家にいる。

   その百

 抽斎歿後の第二十年は明治十一年である。一月《いちげつ》二十五日津軽|承昭《つぐてる》は藩士の伝記を編輯《へんしゅう》せしめんがために、下沢保躬《しもさわやすみ》をして渋江氏について抽斎の行状を徴《め》さしめた。保は直ちに録呈した。いわゆる伝記は今存ずる所の『津軽藩旧記伝類』ではあるまいか。わたくしはいまだその書を見ざるが故に、抽斎の行状が采択《さいたく》せられしや否やを審《つまびらか》にしない。
 保の奉職している浜松変則中学枚はこの年二月二十三日に中学校と改称せられた。
 山田脩はこの年九月二日に、母五百に招致せられて浜松に来た。これより先五百は脩の喘息《ぜんそく》を気遣《きづか》っていたが、脩が矢島|優《ゆたか》と共に『魁《さきがけ》新聞』の記者となるに及んで、その保に寄する書に卯飲《ぼういん》の語あるを見て、大いにその健康を害せんを惧《おそ》れ、急に命じて浜松に来《きた》らしめた。しかし五百は独り脩の身体《しんたい》のためにのみ憂えたのではない。その新聞記者の悪徳に化せられんことをも慮《おもんばか》ったのである。
 この年四月に岡本況斎が八十二歳で歿した。
 抽斎歿後の第二十一年は明治十二年である。十月十五日保は学問修行のため職を辞し、二十八日に聴許《ていきょ》せられた。これは慶応義塾に入《い》って英語を学ばんがためである。
 これより先保は深く英語を窮めんと欲して、いまだその志を遂げずにいた。師範学校に入ったのも、その業を卒《お》えて教員となったのも、皆学資給せざるがために、やむことをえずして為《な》したのである。既にして保は慶応義塾の学風を仄聞《そくぶん》し、頗《すこぶ》る福沢諭吉《ふくざわゆきち》に傾倒した。明治九年に国学者|阿波《あわ》の人某が、福沢の著《あらわ》す所の『学問のすゝめ』を駁《はく》して、書中の「日本《にっぽん》は※[#「くさかんむり/最」、第4水準2−86−82]爾《さいじ》たる小国である」の句を以て祖国を辱《はずかし》むるものとなすを見るに及んで、福沢に代って一文を草し、『民間雑誌』に投じた。『民間雑誌』は福沢の経営する所の日刊新聞で、今の『時事新報』の前身である。福沢は保の文を采録し、手書《しゅしょ》して保に謝した。保はこれより福沢に識《し》られて、これに適従《てきじゅう》せんと欲する念がいよいよ切になったのである。
 保は職を辞する前に、山田脩をして居宅を索《もと》めしめた。脩は九月二十八日に先ず浜松を発して東京に至り、芝区|松本町《まつもとちょう》十二番地の家を借りて、母と弟とを迎えた。
 五百、保の母子は十月三十一日に浜松を発し、十一月三日に松本町の家に著《つ》いた。この時保と脩とは再び東京にあって母の膝下《しっか》に侍することを得たが、独り矢島|優《ゆたか》のみは母の到著するを待つことが出来ずに北海道へ旅立った。十月八日に開拓使御用|掛《がかり》を拝命して、札幌に在勤することとなったからである。
 陸《くが》は母と保との浜松へ往った後《のち》も、亀沢町の家で長唄の師匠をしていた。この家には兵庫屋から帰った水木《みき》が同居していた。勝久は水木の夫であった畑中藤次郎《はたなかとうじろう》を頼もしくないと見定めて、まだ脩が浜松に往かぬ先に相談して、水木を手元へ連れ戻したのである。
 保らは浜松から東京に来た時、二人の同行者があった。一人は山田要蔵、一人は中西常武《なかにしつねたけ》である。
 山田は遠江国《とおとうみのくに》敷智郡《ふちごおり》都築《つづき》の人である。父を喜平といって、畳問屋《たたみどいや》である。その三男要蔵は元治《げんじ》元年|生《うまれ》の青年で、渋江の家から浜松中学校に通い、卒業して東京に来たのである。時に年十六であった。中西は伊勢国|度会郡《わたらいごおり》山田|岩淵町《いわぶちちょう》の人
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