《のち》を襲《つ》いだのが尾崎愕堂《おざきがくどう》さんだそうである。
この頃矢島優は暇を得るごとに、浦和から母の安否を問いに出て来た。そして土曜日には母を連れて浦和へ帰り、日曜日に車で送り還《かえ》した。土曜日に自身で来られぬときは、迎《むかえ》の車をおこすのであった。
鈴木の女主人《おんなあるじ》は次第に優に親《したし》んで、立派な、気さくな檀那《だんな》だといって褒めた。当時の優は黒い鬚髯《しゅぜん》を蓄えていた。かつて黒田伯|清隆《きよたか》に謁した時、座に少女があって、良《やや》久しく優の顔を見ていたが、「あの小父《おじ》さんの顔は倒《さかさ》に附いています」といったそうである。鬢毛《びんもう》が薄くて髯《ひげ》が濃いので、少女は顋《あご》を頭と視《み》たのである。優はこの容貌で洋服を著《つ》け、時計の金鎖《きんぐさり》を胸前《きょうぜん》に垂れていた。女主人が立派だといったはずである。
或土曜日に優が夕食頃に来たので、女主人が「浦和の檀那、御飯を差し上げましょうか」といった。
「いや。ありがたいがもう済まして来ましたよ。今浅草|見附《みつけ》の所を遣《や》って来ると、旨《うま》そうな茶飯餡掛《ちゃめしあんかけ》を食べさせる店が出来ていました。そこに腰を掛けて、茶飯を二杯、餡掛を二杯食べました。どっちも五十文ずつで、丁度二百文でした。廉《やす》いじゃありませんか」と、優はいった。女主人が気さくだと称するのは、この調子を斥《さ》して言ったのである。
その九十六
この年には弘前から東京に出て来るものが多かった。比良野|貞固《さだかた》もその一人《ひとり》で、或日突然|保《たもつ》が横網町の下宿に来て、「今|著《つ》いた」といった。貞固は妻|照《てる》と六歳になる女《むすめ》柳《りゅう》とを連れて来て、百本|杙《ぐい》の側に繋《つな》がせた舟の中に遺《のこ》して置いて、独り上陸したのである。さて差当り保と同居するつもりだといった。
保は即座に承引して、「御遠慮なく奥さんやお嬢さんをお連《つれ》下さい、追附《おっつけ》母も弘前から参るはずになっていますから」といった。しかし保は窃《ひそか》に心を苦《くるし》めた。なぜというに、保は鈴木の女主人《おんなあるじ》に月二両の下宿代を払う約束をしていながら、学資の方が足らぬがちなので、まだ一度も払わずにいた。そこへ遽《にわか》に三人の客を迎えなくてはならなくなった。それが余《よ》の人ならば、宿料《しゅくりょう》を取ることも出来よう。貞固は己《おのれ》が主人となっては、人に銭を使わせたことがないのである。保はどうしても四人前の費用を弁ぜなくてはならない。これが苦労の一つである。またこの界隈《かいわい》ではまだ糸鬢奴《いとびんやっこ》のお留守居《るすい》を見識《みし》っている人が多い。それを横網町の下宿に舎《やど》らせるのが気の毒でならない。これが保の苦労の二つである。
保はこれを忍んで数カ月間三人を※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]待《かんたい》した。そして殆ど日々《にちにち》貞固を横山町の尾張屋に連れて往って馳走《ちそう》した。貞固は養子房之助の弘前から来るまで、保の下宿にいて、房之助が著いた時、一しょに本所緑町に家を借りて移った。丁度保が母親を故郷から迎える頃の事である。
矢川文内もこの年に東京に来た。浅越玄隆も来た。矢川は質店《しちみせ》を開いたが成功しなかった。浅越は名を隆《りゅう》と更《あらた》めて、あるいは東京府の吏となり、あるいは本所区役所の書記となり、あるいは本所銀行の事務員となりなどした。浅越の子は四人あった。江戸|生《うまれ》の長女ふくは中沢彦吾《なかざわひこきち》の弟彦七の妻になり、男子|二人《ににん》の中《うち》、兄は洋画家となり、弟は電信技手となった。
五百と一しょに東京に来た陸《くが》が、夫矢川文一郎の名を以て、本所緑町に砂糖店《さとうみせ》を開いたのもこの年の事である。長尾の女《むすめ》敬の夫三河屋力蔵の開いていた猿若町《さるわかちょう》の引手茶屋《ひきてぢゃや》は、この年十月に新富町《しんとみちょう》に徙《うつ》った。守田勘弥《もりたかんや》の守田座が二月に府庁の許可を得て、十月に開演することになったからである。
この年六月に海保|竹逕《ちくけい》が歿した。文政七年|生《うまれ》であるから、四十九歳を以て終ったのである。前年来|復《また》弁之助と称せずして、名の元起《げんき》を以て行われていた。竹逕の歿した時、家に遺ったのは養父漁村の妾《しょう》某氏と竹逕の子女|各《おのおの》一人《いちにん》とである。嗣子|繁松《しげまつ》は文久二年生で、家を継いだ時七歳になっていた。竹逕が歿してからは、保は島田|篁村《こうそん》を漢学の師と仰いだ。天保九年に生れた篁村は三十五歳になっていたのである。
抽斎歿彼の第十五年は明治六年である。二月十日に渋江氏は当時の第六|大区《だいく》六小区本所|相生町《あいおいちょう》四丁目に※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]居《しゅうきょ》した。五百が五十八歳、保が十七歳の時である。家族は初め母子の外に水木《みき》がいたばかりであるが、後《のち》には山田脩が来て同居した。脩はこの頃|喘息《ぜんそく》に悩んでいたので、割下水の家を畳んで、母の世話になりに来たのである。
五百は東京に来てから早く一戸を構えたいと思っていたが、現金の貯《たくわえ》は殆ど尽きていたので、奈何《いかん》ともすることが出来なかった。既にして保が師範学校から月額十円の支給を受けることになり、五百は世話をするものがあって、不本意ながらも芸者屋のために裁縫をして、多少の賃銀を得ることになった。相生町の家は此《ここ》に至って始《はじめ》て借りられたのである。
その九十七
保は前年来本所相生町の家から師範学校に通っていたが、この年五月九日に学校長が生徒一同に寄宿を命じた。これは工事中であった寄宿舎が落成したためである。しかもこの命令には期限が附してあって、来六月六日に必ず舎内に徙《うつ》れということであった。
然《しか》るに保は入舎を欲せないので、「母病気に付《つき》当分の内《うち》通学|御《ご》許可|相成度《あいなりたく》」云々という願書を呈して、旧に依《よ》って本所から通っていた。母の病気というのは虚言《うそ》ではなかった。五百は当時眼病に罹《かか》って苦《くるし》んでいた。しかし保は単に五百の目疾《もくしつ》の故を以て入舎の期を延ばしたのではない。
保は師範学校の授くる所の学術が、自己の攻《おさ》めんと欲する所のものと相反しているのを見て、窃《ひそか》に退学を企てていた。それゆえ舎外生から舎内生に転じて、学校と自己との関係の一段の緊密を加うることを嫌うのであった。
学校は米人スコットというものを雇い来《きた》って、小学の教授法を生徒に伝えさせた。主として練習させるのは子母韻の発声である。発声の正しいものは上席におらせる。訛《なま》っているものは下席におらせる。それゆえ東京人、中国人などは材能《さいのう》がなくても重んぜられ、九州人、東北人などは材能があっても軽《かろ》んぜられる。生徒は多く不平に堪えなかった。中にも東京人某は、己《おのれ》が上位に置かれているにもかかわらず、「この教授法では延寿太夫が最優等生になる」と罵《ののし》った。
保は英語を操《つか》い英文を読むことを志しているのに、学校の現状を見れば、所望に※[#「りっしんべん+(匚<夾)」、第3水準1−84−56]《かな》う科目は絶《たえ》てなかった。また縦《たと》い未来において英文の科が設けられるにしても、共に入学した五十四人の過半は純乎《じゅんこ》たる漢学諸生だから、スペルリングや第一リイダアから始められなくてはならない。保はこれらの人々と歩調を同じうして行くのを堪えがたく思った。
保はどうにかして退学したいと思った。退学してどうするかというと、相識のフルベックに請うて食客にしてもらっても好《い》い。また誰《たれ》かのボオイになって海外へ連れて行ってもらっても好い。モオレエ夫婦などの如く、現に自分を愛しているものもある。頼みさえしたら、ボオイに使ってくれぬこともあるまい。こんな夢を保は見ていた。
保は此《かく》の如くに思惟《しゆい》して、校長、教師に敬意を表せず、校則、課業を遵奉《じゅんぽう》することをも怠り、早晩退学処分の我|頭上《とうじょう》に落ち来《きた》らんことを期していた。校長|諸葛信澄《もろくずのぶずみ》の家に刺《し》を通ぜない。その家が何|町《ちょう》にあるかをだに知らずにいる。教師に遅れて教場に入る。数学を除く外、一切の科目を温習せずに、ただ英文のみを読んでいる。
入舎の命令をばこの状況の下《もと》に接受した。そして保はこう思った。もし入舎せずにいたら、必ず退学処分が降《くだ》るだろう。そうなったら、再び頂天立地《ちょうてんりっち》の自由の身となって、随意に英学を研究しよう。勿論折角|贏《か》ち得た官費は絶えてしまう。しかし書肆《しょし》万巻楼《まんがんろう》の主人が相識で、翻訳書を出してくれようといっている。早速翻訳に着手しようというのである。万巻楼の主人は大伝馬町《おおでんまちょう》の袋屋亀次郎《ふくろやかめじろう》で、これより先《さき》保の初《はじめ》て訳したカッケンボスの『米国史』を引き受けて、前年これを発行したことがある。
保はこの計画を母に語って同意を得た。しかし矢島|優《ゆたか》と比良野|貞固《さだかた》とが反対した。その主《おも》なる理由は、もし退学処分を受けて、氏名を文部省雑誌に載せられたら、拭《ぬぐ》うべからざる汚点を履歴の上に印するだろうというにあった。
十月十九日に保は隠忍して師範学校の寄宿舎に入《い》った。
その九十八
矢島|優《ゆたか》はこの年八月二十七日に少属《しょうさかん》に陞《のぼ》ったが、次で十二月二十七日には同官等を以て工部省に転じ、鉱山に関する事務を取り扱うことになり、芝琴平町《しばことひらちょう》に来《きた》り住した。優の家にいた岡寛斎も、優に推挙せられて工部省の雇員になった。寛斎は後《のち》明治十七年十月十九日に歿した。天保十年|生《うまれ》であるから、四十六歳を以て終ったのである。寛斎は生れて姿貌《しぼう》があったが、痘を病んで容《かたち》を毀《やぶ》られた。医学館に学び、また抽斎、枳園《きえん》の門下におった。寛斎は枳園が寿蔵碑の後《のち》に書して、「余少時曾在先生之門《よわかいときかつてせんせいのもんにあり》、能知其為人《よくそのひととなりと》、且学之広博《がくのこうはくをしる》、因窃録先生之言行及字学医学之諸説《よりてひそかにせんせいのげんこうおよびじがくいがくのしょせつをろくし》、別為小冊子《べつにしょうさっしとなす》」といっている。わたくしはその書の存否を審《つまびらか》にしない。寛斎は初め伊沢氏かえの生んだ池田全安の女《むすめ》梅を娶《めと》ったが、後これを離別して、陸奥国《むつのくに》磐城平《いわきだいら》の城主安藤家の臣後藤氏の女《じょ》いつを後妻に納《い》れた。いつは二子を生んだ。長男|俊太郎《しゅんたろう》さんは、今|本郷西片町《ほんごうにしかたまち》に住んで、陸軍省人事局補任課に奉職している。次男|篤次郎《とくじろう》さんは風間《かざま》氏を冒して、小石川宮下町《こいしかわみやしたちょう》に住んでいる。篤次郎さんは海軍機関大佐である。
陸《くが》はこの年矢川文一郎と分離して、砂糖店《さとうみせ》を閉じた。生計意の如くならざるがためであっただろう。文一郎が三十三歳、陸が二十七歳の時である。
次で陸は本所《ほんじょ》亀沢町《かめざわちょう》に看板を懸けて杵屋勝久《きねやかつひさ》と称し、長唄《ながうた》の師匠をすることになった。
矢島周禎の一族もまたこの年に東京に遷《うつ》った。周禎は霊岸島《
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