て迎えられることもある。馬を以て請《しょう》ぜられることもある。枳園は大磯を根拠地として、中《なか》、三浦《みうら》両郡の間を往来し、ここに足掛十二年の月日を過すこととなった。
抽斎は天保九年の春を弘前に迎えた。例の宿直日記に、正月十三日|忌明《きあき》と書してある。父の喪が果てたのである。続いて第二の冬をも弘前で過して、翌天保十年に、抽斎は藩主|信順《のぶゆき》に随《したが》って江戸に帰った。三十五歳になった年である。
この年五月十五日に、津軽家に代替《だいがわり》があった。信順は四十歳で致仕して柳島の下屋敷に遷《うつ》り、同じ齢《よわい》の順承《ゆきつぐ》が小津軽《こつがる》から入《い》って封を襲《つ》いだ。信順は頗《すこぶ》る華美を好み、動《やや》もすれば夜宴を催しなどして、財政の窮迫を馴致《じゅんち》し、遂に引退したのだそうである。
抽斎はこれから隠居信順|附《づき》にせられて、平日は柳島の館《やかた》に勤仕し、ただ折々上屋敷に伺候した。
その二十九
天保十一年は十二月十四日に谷文晁の歿した年である。文晁は抽斎が師友を以て遇していた年長者で、抽斎は平素|画《え》を鑑賞することについては、なにくれとなく教《おしえ》を乞い、また古器物《こきぶつ》や本艸《ほんぞう》の参考に供すべき動植物を図《ず》するために、筆の使方《つかいかた》、顔料《がんりょう》の解方《ときかた》などを指図してもらった。それが前年に七十七の賀宴を両国《りょうごく》の万八楼《まんはちろう》で催したのを名残《なごり》にして、今年|亡人《なきひと》の数に入《い》ったのである。跡は文化九年|生《うまれ》で二十九歳になる文二《ぶんじ》が嗣《つ》いだ。文二の外に六人の子を生んだ文晁の後妻|阿佐《あさ》は、もう五年前に夫に先《さきだ》って死んでいたのである。この年抽斎は三十六歳であった。
天保十二年には、岡西氏|徳《とく》が二女《じじょ》好《よし》を生んだが、好は早世した。閏《じゅん》正月二十六日に生れ、二月三日に死んだのである。翌十三年には、三男|八三郎《はちさぶろう》が生れたが、これも夭折《ようせつ》した。八月三日に生れ、十一月九日に死んだのである。抽斎が三十七歳から三十八歳になるまでの事である。わたくしは抽斎の事を叙する初《はじめ》において、天保十二年の暮の作と認むべき抽斎の述志の詩を挙げて、当時の渋江氏の家族を数えたが、※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2−1−57]《たちま》ち来り※[#「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2−1−57]ち去った女《むすめ》好の名は見《あら》わすことが出来なかった。
天保十四年六月十五日に、抽斎は近習に進められた。三十九歳の時である。
この年に躋寿館《せいじゅかん》で書を講じて、陪臣|町医《まちい》に来聴せしむる例が開かれた。それが十月で、翌十一月に始て新《あらた》に講師が任用せられた。初《はじめ》館には都講《とこう》、教授があって、生徒に授業していたに過ぎない。一時|多紀藍渓《たきらんけい》時代に百日課《ひゃくにちか》の制を布《し》いて、医学も経学《けいがく》も科を分って、百日を限って講じたことがある。今いうクルズスである。しかしそれも生徒に聴《き》かせたのである。百日課は四年間で罷《や》んだ。講師を置いて、陪臣町医の来聴を許すことになったのは、この時が始である。五カ月の後、幕府が抽斎を起《た》たしむることとなったのは、この制度あるがためである。
弘化元年は抽斎のために、一大転機を齎《もたら》した。社会においては幕府の直参《じきさん》になり、家庭においては岡西氏徳のみまかった跡へ、始て才色兼ね備わった妻が迎えられたのである。
この一年間の出来事を順次に数えると、先ず二月二十一日に妻徳が亡くなった。三月十二日に老中《ろうじゅう》土井《どい》大炊頭《おおいのかみ》利位《としつら》を以て、抽斎に躋寿館講師を命ぜられた。四月二十九日に定期|登城《とじょう》を命ぜられた。年始、八朔《はっさく》、五節句、月並《つきなみ》の礼に江戸城に往《ゆ》くことになったのである。十一月六日に神田|紺屋町《こんやちょう》鉄物問屋《かなものどいや》山内忠兵衛妹|五百《いお》が来り嫁した。表向《おもてむき》は弘前藩目附役百石比良野助太郎妹|翳《かざし》として届けられた。十二月十日に幕府から白銀《はくぎん》五枚を賜わった。これは以下恒例になっているから必ずしも書かない。同月二十六日に長女|純《いと》が幕臣|馬場玄玖《ばばげんきゅう》に嫁した。時に年十六である。
抽斎の岡西氏徳を娶《めと》ったのは、その兄玄亭が相貌《そうぼう》も才学も人に優れているのを見て、この人の妹ならと思ったからである。然るに伉儷《こうれい》をなしてから見ると、才貌共に予期したようではなかった。それだけならばまだ好《よ》かったが、徳は兄には似ないで、かえって父栄玄の褊狭《へんきょう》な気質を受け継いでいた。そしてこれが抽斎にアンチパチイを起させた。
最初の妻|定《さだ》は貧家の女《むすめ》の具えていそうな美徳を具えていなかったらしく、抽斎の父|允成《ただしげ》が或時、己《おれ》の考が悪かったといって歎息したこともあるそうだが、抽斎はそれほど厭《いや》とは思わなかった。二人《ににん》目の妻|威能《いの》は怜悧《れいり》で、人を使う才があった。とにかく抽斎に始てアンチパチイを起させたのは、三人目の徳であった。
その三十
克己を忘れたことのない抽斎は、徳を叱《しか》り懲らすことはなかった。それのみではない。あらわに不快の色を見せもしなかった。しかし結婚してから一年半ばかりの間、これに親近せずにいた。そして弘前へ立った。初度の旅行の時の事である。
さて抽斎が弘前にいる間、江戸の便《たより》があるごとに、必ず長文の手紙が徳から来た。留守中の出来事を、殆《ほとん》ど日記のように悉《くわし》く書いたのである。抽斎は初め数行《すうこう》を読んで、直《ただ》ちにこの書信が徳の自力によって成ったものでないことを知った。文章の背面に父允成の気質が歴々として見えていたからである。
允成は抽斎の徳に親《したし》まぬのを見て、前途のために危《あやぶ》んでいたので、抽斎が旅に立つと、すぐに徳に日課を授けはじめた。手本を与えて手習《てならい》をさせる。日記を附けさせる。そしてそれに本《もと》づいて文案を作って、徳に筆を把《と》らせ、家内《かない》の事は細大となく夫に報ぜさせることにしたのである。
抽斎は江戸の手紙を得るごとに泣いた。妻のために泣いたのではない。父のために泣いたのである。
二年近い旅から帰って、抽斎は勉《つと》めて徳に親んで、父の心を安《やすん》ぜようとした。それから二年立って優善《やすよし》が生れた。
尋《つ》いで抽斎は再び弘前へ往って、足掛三年|淹留《えんりゅう》した。留守に父の亡くなった旅である。それから江戸に帰って、中一年置いて好《よし》が生れ、その翌年また八三郎が生れた。徳は八三郎を生んで一年半立って亡くなった。
そして徳の亡くなった跡へ山内氏|五百《いお》が来ることになった。抽斎の身分は徳が往《ゆ》き、五百が来《きた》る間に変って、幕府の直参《じきさん》になった。交際は広くなる。費用は多くなる。五百は卒《にわか》にその中《うち》に身を投じて、難局に当らなくてはならなかった。五百があたかも好《よ》しその適材であったのは、抽斎の幸《さいわい》である。
五百の父山内忠兵衛は名を豊覚《ほうかく》といった。神田紺屋町に鉄物問屋《かなものどいや》を出して、屋号を日野屋といい、商標には井桁《いげた》の中に喜の字を用いた。忠兵衛は詩文書画を善くして、多く文人|墨客《ぼっかく》に交《まじわ》り、財を捐《す》ててこれが保護者となった。
忠兵衛に三人の子があった。長男栄次郎、長女|安《やす》、二女五百である。忠兵衛は允成の友で、嫡子栄次郎の教育をば、久しく抽斎に託していた。文政七、八年の頃、允成が日野屋をおとずれて、芝居の話をすると、九つか十であった五百と、一つ年上の安とが面白がって傍聴していたそうである。安は即ち後に阿部家に仕えた金吾《きんご》である。
五百は文化十三年に生れた。兄栄次郎が五歳、姉安が二歳になっていた時である。忠兵衛は三人の子の次第に長ずるに至って、嫡子には士人たるに足る教育を施し、二人の女《むすめ》にも尋常女子の学ぶことになっている読み書き諸芸の外、武芸をしこんで、まだ小さい時から武家奉公に出した。中にも五百には、経学《けいがく》などをさえ、殆ど男子に授けると同じように授けたのである。
忠兵衛が此《かく》の如くに子を育てたには来歴がある。忠兵衛の祖先は山内|但馬守《たじまのかみ》盛豊《もりとよ》の子、対馬守《つしまのかみ》一豊《かずとよ》の弟から出たのだそうで、江戸の商人になってからも、三葉柏《みつばがしわ》の紋を附け、名のりに豊《とよ》の字を用いることになっている。今わたくしの手近《てぢか》にある系図には、一豊の弟は織田信長《おだのぶなが》に仕えた修理亮《しゅりのすけ》康豊《やすとよ》と、武田信玄《たけだしんげん》に仕えた法眼《ほうげん》日泰《にったい》との二人しか載せてない。忠兵衛の家は、この二人の内いずれかの裔《すえ》であるか、それとも外に一豊の弟があったか、ここに遽《にわか》に定《さだ》めることが出来ない。
その三十一
五百《いお》は十一、二歳の時、本丸に奉公したそうである。年代を推せば、文政九年か十年かでなくてはならない。徳川家斉《とくがわいえなり》が五十四、五歳になった時である。御台所《みだいどころ》は近衛経煕《このえけいき》の養女|茂姫《しげひめ》である。
五百は姉小路《あねこうじ》という奥女中の部屋子《へやこ》であったという。姉小路というからには、上臈《じょうろう》であっただろう。然《しか》らば長局《ながつぼね》の南一の側《かわ》に、五百はいたはずである。五百らが夕方《ゆうかた》になると、長い廊下を通って締めに往《ゆ》かなくてはならぬ窓があった。その廊下には鬼が出るという噂《うわさ》があった。鬼とはどんな物で、それが出て何をするかというに、誰《たれ》も好《よ》くは見ぬが、男の衣《きもの》を着ていて、額に角《つの》が生《は》えている。それが礫《つぶて》を投げ掛けたり、灰を蒔《ま》き掛けたりするというのである。そこでどの部屋子も窓を締めに往くことを嫌って、互《たがい》に譲り合った。五百は穉《おさな》くても胆力があり、武芸の稽古《けいこ》をもしたことがあるので、自ら望んで窓を締めに往《い》った。
暗い廊下を進んで行くと、果してちょろちょろと走り出たものがある。おやと思う間もなく、五百は片頬《かたほ》に灰を被《かぶ》った。五百には咄嗟《とっさ》の間《あいだ》に、その物の姿が好くは見えなかったが、どうも少年の悪作劇《いたずら》らしく感ぜられたので、五百は飛び附いて掴《つか》まえた。
「許せ/\」と鬼は叫んで身をもがいた。五百はすこしも手を弛《ゆる》めなかった。そのうちに外の女子《おなご》たちが馳《は》せ附けた。
鬼は降伏して被っていた鬼面《おにめん》を脱いだ。銀之助《ぎんのすけ》様と称《とな》えていた若者で、穉くて美作国《みまさかのくに》西北条郡《にしほうじょうごおり》津山《つやま》の城主|松平家《まつだいらけ》へ壻入《むこいり》した人であったそうである。
津山の城主松平越後守|斉孝《なりたか》の次女|徒《かち》の方《かた》の許《もと》へ壻入したのは、家斉の三十四人目の子で、十四男|参河守《みかわのかみ》斉民《なりたみ》である。
斉民は小字《おさなな》を銀之助という。文化十一年七月二十九日に生れた。母はお八重《やえ》の方《かた》である。十四年七月二十二日に、御台所《みだいどころ》の養子にせられ、九月十八日に津山の松平家に壻入し、十二月三日に松平邸に往《いっ》た。四歳の壻君《むこ
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