たりしてくれ、呉秀三《くれしゅうぞう》さんは医史の資料について捜索してくれ、大槻文彦《おおつきふみひこ》さんは如電《にょでん》さんに問うてくれ、如電さんは向島へまで墓を探りに往ってくれた。如電さんの事は墨汁師の書状によって知ったが、恐らくは郷土史の嗜好《しこう》あるがために、踏査の労をさえ厭《いと》わなかったのであろう。ただ憾《うら》むらくもわたくしは徒《いたずら》にこれらの諸家を煩わしたに過ぎなかった。
 これに反してわたくしが多少積極的に得る所のあったのは、富士川游さんと墨汁師とのお蔭《かげ》である。わたくしは数度書状の往復をした末に、或日富士川さんの家を訪《と》うた。そしてこういうことを聞いた。富士川さんは昔年《せきねん》日本医学史の資料を得ようとして、池田氏の墓に詣《もう》でた。医学史の記載中脚註に墓誌と書してあるのは、当時墓について親しく抄記したものだというのである。惜《おし》むらくは富士川さんは墓誌銘の全文を写して置かなかった。また嶺松寺という寺号をも忘れていた。それゆえわたくしに答えた書に常泉寺の傍《かたわら》と記《しる》したのである。是《ここ》においてかつて親しく嶺松寺
前へ 次へ
全446ページ中70ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング