保が五月十五日に神田|三崎町《みさきちょう》一番地に移った。三十八年には保が七月十三日に荏原郡《えばらごおり》品川町《しながわちょう》南品川百五十九番地に移った。脩が十二月に静岡の渋江塾を閉じた。川田が宮城県第一中学校長に転じて、静岡中学校の規則が変更せられ、渋江塾は存立《ぞんりつ》の必要なきに至ったのである。伊沢柏軒の嗣子|磐《いわお》が十一月二十四日に歿した。鉄三郎が徳安《とくあん》と改め、維新後にまた磐と改めたのである。磐の嗣子|信治《しんじ》さんは今|赤坂《あかさか》氷川町《ひかわちょう》の姉壻|清水夏雲《しみずかうん》さんの許《もと》にいる。三十九年には脩が入京して小石川《こいしかわ》久堅町《ひさかたちょう》博文館印刷所の校正係になった。根本羽嶽が十月三日に八十五歳で歿した。四十年には保の四女|紅葉《もみじ》が十月二十二日に生れて、二十八日に夭した。これが抽斎歿後の第四十八年に至るまでの事略である。
抽斎歿後の第四十九年は明治四十一年である。四月十二日午後十時に脩が歿した。脩はこの月四日降雪の日に感冒した。しかし五日までは博文館印刷所の業を廃せなかった。六日に至って咳嗽《が
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