村《こうそん》を漢学の師と仰いだ。天保九年に生れた篁村は三十五歳になっていたのである。
抽斎歿彼の第十五年は明治六年である。二月十日に渋江氏は当時の第六|大区《だいく》六小区本所|相生町《あいおいちょう》四丁目に※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]居《しゅうきょ》した。五百が五十八歳、保が十七歳の時である。家族は初め母子の外に水木《みき》がいたばかりであるが、後《のち》には山田脩が来て同居した。脩はこの頃|喘息《ぜんそく》に悩んでいたので、割下水の家を畳んで、母の世話になりに来たのである。
五百は東京に来てから早く一戸を構えたいと思っていたが、現金の貯《たくわえ》は殆ど尽きていたので、奈何《いかん》ともすることが出来なかった。既にして保が師範学校から月額十円の支給を受けることになり、五百は世話をするものがあって、不本意ながらも芸者屋のために裁縫をして、多少の賃銀を得ることになった。相生町の家は此《ここ》に至って始《はじめ》て借りられたのである。
その九十七
保は前年来本所相生町の家から師範学校に通っていたが、この年五月九日に学校長が生徒一同に寄宿を命じた。こ
前へ
次へ
全446ページ中365ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング