《ふるわたりすけひで》などがいた。加治は後に渡辺氏を冒し、小説家の群《むれ》に投じ、『絵入自由新聞』に続物《つづきもの》を出したことがある。作者|名《みょう》は花笠文京《はながさぶんきょう》である。古渡は風采《ふうさい》揚《あが》らず、挙止|迂拙《うせつ》であったので、これと交《まじわ》るものは殆《ほとん》ど保|一人《いちにん》のみであった。本《もと》常陸国《ひたちくに》の農家の子で、地方に初生児を窒息させて殺す陋習《ろうしゅう》があったために、まさに害せられんとして僅に免れたのだそうである。東京に来て桑田衡平《くわたこうへい》の家の学僕になっていて、それからこの学校に入《い》った。齢《よわい》は保より長ずること七、八歳であるのに、級の席次は迥《はるか》に下《しも》にいた。しかし保はその人《ひと》と為《な》りの沈著《ちんちゃく》なのを喜んで厚くこれを遇した。この人は卒業後に佐賀県師範学校に赴任し、暫《しばら》くして罷《や》め、慶応義塾の別科を修め、明治十二年に『新潟新聞』の主筆になって、一時東北政論家の間に重《おもん》ぜられたが、その年八月十二日に虎列拉《コレラ》を病んで歿した。その後
前へ
次へ
全446ページ中360ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング