浴することが出来ずに、母に対しては頗《すこぶ》る自ら抑遜《よくそん》していなくてはならなかった。
これに反して抽斎は陸を愛撫《あいぶ》して、身辺におらせて使役しつつ、或時五百にこういった。「己《おれ》はこんなに丈夫だから、どうもお前よりは長く生きていそうだ。それだから今の内に、こうして陸を為込《しこ》んで置いて、お前に先へ死なれた時、この子を女房代りにするつもりだ。」
陸はまた兄矢島優善にも愛せられた。塩田良三もまた陸を愛する一人《いちにん》で、陸が手習をする時、手を把《と》って書かせなどした。抽斎が或日陸の清書を見て、「良三さんのお清書が旨《うま》く出来たな」といって揶揄《からか》ったことがある。
陸は小さい時から長歌《ながうた》が好《すき》で、寒夜に裏庭の築山《つきやま》の上に登って、独り寒声《かんごえ》の修行をした。
その八十六
抽斎の四女陸はこの家庭に生長して、当時なおその境遇に甘んじ、毫《ごう》も婚嫁を急ぐ念がなかった。それゆえかつて一たび飯田|寅之丞《とらのじょう》に嫁せんことを勧めたものもあったが、事が調《ととの》わなかった。寅之丞は当時近習小姓であった
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