一人を連れていた。主人は通称を玄隆《げんりゅう》といって、百八十石六人扶持の表医者である。玄隆は少《わか》い時|不行迹《ふぎょうせき》のために父永寿に勘当せられていたが、永寿の歿するに及んで末期《まつご》養子として後《のち》を承《う》け、次で抽斎の門人となり、また抽斎に紹介せられて海保漁村の塾に入《い》った。天保九年の生れで、抽斎に従学した安政四年には二十歳であった。その後渋江氏と親《したし》んでいて、共に江戸を立った時は三十一歳である。玄隆の妻よしは二十四歳、女《むすめ》ふくは当歳である。
 ここにこの一行に加わろうとして許されなかったものがある。わたくしはこれを記《き》するに当って、当時の社会が今と殊《こと》なることの甚だしきを感ずる。奉公人が臣僕の関係になっていたことは勿論《もちろん》であるが、出入《でいり》の職人|商人《あきうど》もまた情誼《じょうぎ》が頗《すこぶ》る厚かった。渋江の家に出入《いでいり》する中で、職人には飾屋長八《かざりやちょうはち》というものがあり、商人には鮓屋久次郎《すしやきゅうじろう》というものがあった。長八は渋江氏の江戸を去る時|墓木《ぼぼく》拱《きょう
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