っとう》にも、この人の手から商估《しょうこ》の手にわたったものがある。ここに保さんの記憶している一例を挙げよう。抽斎の遺物に円山応挙《まるやまおうきょ》の画《え》百枚があった。題材は彼《か》の名高い七難七福の図に似たもので、わたくしはその名を保さんに聞いて記憶しているが、少しくこれを筆にすることを憚《はばか》る。装※[#「さんずい+(廣−广)」、第3水準1−87−13]《そうこう》頗る美にして桐の箱入になっていた。この画と木彫《もくちょう》の人形数箇とを、豊芥子は某会に出陳するといって借りて帰った。人形は六歌仙と若衆《わかしゅ》とで、寛永時代の物だとかいうことであった。これは抽斎が「三坊《さんぼう》には雛《ひな》人形を遣らぬ代《かわり》にこれを遣る」といったのだそうである。三坊とは成善《しげよし》の小字《おさなな》三吉《さんきち》である。五百は度々|清助《せいすけ》という若党を、浅草|諏訪町《すわちょう》の鎌倉屋へ遣って、催促して還《かえ》させようとしたが、豊芥子は言《こと》を左右に託して、遂にこれを還さなかった。清助は本《もと》京都の両替店《りょうがえてん》銭屋《ぜにや》の息子《むす
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