て、寄場《よせば》はこれがために雑沓《ざっとう》した。照葉とは天爾波《てには》俄《にわか》の訛略《かりゃく》だというのである。
 伊原さんはこの照葉の語原は覚束《おぼつか》ないといっているが、いかにも輒《すなわ》ち信じがたいようである。
 能楽は抽斎の楽《たのし》み看《み》る所で、少《わか》い頃謡曲を学んだこともある。偶《たまたま》弘前の人村井|宗興《そうこう》と相逢うことがあると、抽斎は共に一曲を温習した。技の妙が人の意表に出たそうである。
 俗曲は少しく長唄を学んでいたが、これは謡曲の妙に及ばざること遠かった。
 抽斎は鑑賞家として古画を翫《もてあそ》んだが、多く買い集むることをばしなかった。谷文晁《たにぶんちょう》の教《おしえ》を受けて、実用の図を作る外に、往々自ら人物山水をも画《えが》いた。
「古武鑑」、古江戸図、古銭は抽斎の聚珍家《しゅうちんか》として蒐集《しゅうしゅう》した所である。わたくしが初め「古武鑑」に媒介せられて抽斎を識《し》ったことは、前にいったとおりである。
 抽斎は碁を善くした。しかし局に対することが少《まれ》であった。これは自ら※[#「にんべん+敬」、第3水
前へ 次へ
全446ページ中247ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング