さまにその人を斥《さ》さずに、ほぼその事を記《しる》すのは、あるいは妨《さまたげ》がなかろうか。わたくしはこう思惟《しゆい》して、抽斎の勤王を説くに当って、遂にこの事に言い及んだ。
 抽斎は勤王家ではあったが、攘夷家ではなかった。初め抽斎は西洋|嫌《ぎらい》で、攘夷に耳を傾《かたぶ》けかねぬ人であったが、前にいったとおりに、安積艮斎《あさかごんさい》の書を読んで悟る所があった。そして窃《ひそか》に漢訳の博物窮理の書を閲《けみ》し、ますます洋学の廃すべからざることを知った。当時の洋学は主に蘭学であった。嗣子の保さんに蘭語を学ばせることを遺言したのはこれがためである。
 抽斎は漢法医で、丁度蘭法医の幕府に公認せられると同時に世を去ったのである。この公認を贏《か》ち得るまでには、蘭法医は社会において奮闘した。そして彼らの攻撃の衝に当ったものは漢法医である。その応戦の跡は『漢蘭酒話』、『一夕《いっせき》医話』等の如き書に徴して知ることが出来る。抽斎は敢《あえ》て言《げん》をその間に挟《さしはさ》まなかったが、心中これがために憂え悶《もだ》えたことは、想像するに難からぬのである。

   その六
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