以て辞した。この日に始て嘔吐《おうど》があった。それから二十七日に至るまで、諸証は次第に険悪になるばかりであった。
多紀|安琢《あんたく》、同《おなじく》元佶《げんきつ》、伊沢柏軒、山田|椿庭《ちんてい》らが病牀《びょうしょう》に侍して治療の手段を尽したが、功を奏せなかった。椿庭、名は業広《ぎょうこう》、通称は昌栄《しょうえい》である。抽斎の父|允成《ただしげ》の門人で、允成の歿後抽斎に従学した。上野国《こうずけのくに》高崎の城主松平|右京亮《うきょうのすけ》輝聡《てるとし》の家来で、本郷|弓町《ゆみちょう》に住んでいた。
抽斎は時々《じじ》譫語《せんご》した。これを聞くに、夢寐《むび》の間《あいだ》に『医心方』を校合《きょうごう》しているものの如くであった。
抽斎の病況は二十八日に小康を得た。遺言《ゆいごん》の中《うち》に、兼て嗣子と定めてあった成善《しげよし》を教育する方法があった。経書《けいしょ》を海保漁村に、筆札《ひっさつ》を小島成斎に、『素問《そもん》』を多紀安琢に受けしめ、機を看《み》て蘭語《らんご》を学ばしめるようにというのである。
二十八日の夜|丑《うし》の刻に
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