る。これが平井氏の戴師持念仏に恋々たる所以《ゆえん》である。
 戴曼公はまた痘科を池田|嵩山《すうざん》に授けた。嵩山の曾孫が錦橋《きんきょう》、錦橋の姪《てつ》が京水、京水の子が瑞長である。これが池田氏の偶《たまたま》獲た曼公の遺品を愛重《あいちょう》して措《お》かなかった所以である。
 この薬師如来は明治の代《よ》となってから守田宝丹《もりたほうたん》が護持していたそうである。また六方印は中井敬所の有に帰していたそうである。
 貞固と東堂とは、共に留守居の物頭《ものがしら》を兼ねていた。物頭は詳しくは初手《しょて》足軽頭《あしがるがしら》といって、藩の諸兵の首領である。留守居も物頭も独礼《どくれい》の格式である。平時は中下《なかしも》屋敷附近に火災の起《おこ》るごとに、火事|装束《しょうぞく》を着けて馬に騎《の》り、足軽数十人を随《したが》えて臨検した。貞固はその帰途には、殆ど必ず渋江の家に立ち寄った。実に威風堂々たるものであったそうである。
 貞固も東堂も、当時諸藩の留守居中有数の人物であったらしい。帆足万里《ほあしばんり》はかつて留守居を罵《ののし》って、国財を靡《び》し私腹を
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