の店で亡くなった。その跡を襲《つ》いだのは松太郎|光寿《こうじゅ》で、それが三右衛門《さんえもん》の称をも継承した。迷庵の弟|光忠《こうちゅう》は別に外神田《そとかんだ》に店を出した。これより後《のち》内神田の市野屋と、外神田の市野屋とが対立していて、彼は世《よよ》三右衛門を称し、此《これ》は世《よよ》市三郎を称した。五百が書状を遣った市野屋は当時弁慶橋にあって、早くも光寿の子|光徳《こうとく》の代になっていた。光寿は迷庵の歿後|僅《わずか》に五年にして、天保三年に光徳を家督させた。光徳は小字《おさなな》を徳治郎《とくじろう》といったが、この時|更《あらた》めて三右衛門を名告《なの》った。外神田の店はこの頃まだ迷庵の姪《てつ》光長《こうちょう》の代であった。
 ほどなく光徳の店の手代《てだい》が来た。五百《いお》は箪笥《たんす》長持《ながもち》から二百数十枚の衣類寝具を出して見せて、金を借らんことを求めた。手代は一枚一両の平均を以て貸そうといった。しかし五百は抗争した末に、遂に三百両を借《か》ることが出来た。
 三百両は建築の費《ついえ》を弁ずるには余《あまり》ある金であった。しかし目
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