じゅう》牧野備前守|忠雅《ただまさ》の口達《こうたつ》があった。年来学業出精に付《つき》、ついでの節|目見《めみえ》仰附けらるというのである。この月十五日に謁見は済んだ。始て「武鑑」に載せられる身分になったのである。
 わたくしの蔵している嘉永二年の「武鑑」には、目見医師の部に渋江道純の名が載せてあって、屋敷の所が彫刻せずにある。三年の「武鑑」にはそこに紺屋町一丁目と刻してある。これはお玉が池の家が手狭《てぜま》なために、五百の里方山内の家を渋江邸として届け出《い》でたものである。

   その三十八

 抽斎の将軍|家慶《いえよし》に謁見したのは、世の異数となす所であった。素《もと》より躋寿館に勤仕する医者には、当時奥医師になっていた建部《たけべ》内匠頭《たくみのかみ》政醇《まさあつ》家来|辻元※[#「山/松」、第3水準1−47−81]庵《つじもとしゅうあん》の如く目見《めみえ》の栄に浴する前例はあったが、抽斎に先《さきだ》って伊沢|榛軒《しんけん》が目見をした時には、藩主阿部正弘が老中《ろうじゅう》になっているので、薦達《せんたつ》の早きを致したのだとさえ言われた。抽斎と同日に目見
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